レコード業界の内側
Inside The Record Business

   クライヴ・デイヴィス ジェームズ・ウィルウェース 著
翻訳:Chie http://www.ne.jp/asahi/art/garfunkel/

目次>> 訳者前文 / 【1】 / 【2】 / 【3】

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ポールのソロ・デビュー・アルバムが1972年に完成すると、いつもの通り、私は彼とスタジオで落ち合った。今回は彼の仲の良い友人たちも一緒だった。『ふたり自身/The Heartbreak Kid』の主演俳優チャールズ・グローディン【*1】、女優のゾーラ・ランパート、ポールの弁護士兼ビジネス・アドバイザーで親友のマイケル・タネンが、アルバムを聴くために集まった。ポールと私は聞き終わった後話し合い、最初のシングルを「Mother and Child Reunion/母と子の絆」、2枚目を「Me and Julio Down By The Schoolyard/僕とフリオと校庭で」に決めた。

このアルバムは『Bridge』の次作となるわけで、かなりの注目を集めると分かっていた。だから、トラブルは避けたかった。ポールは、まずイギリス、それから他のヨーロッパ諸国で最初のプレス・インタビューをやりたがった。彼はヨーロッパではスーパースターなのだ。アルバム『Bridge Over Troubled Water/明日に架ける橋』は、イギリスだけでも100万枚以上売り上げたのだから。メディアが大々的に取り上げることはわかっていた。私も、スムーズに行くように、同席することにしていた。当然、解散について質問が出るだろうし、ポールが隠し立てなく答えることもわかっていた。それがいつもの彼のスタイルだから。しかし、私は、アーティともう2度と一緒にはやらないなどと、ぶっきらぼうに言ってほしくなかった。

と言うのも、私は二人がまた一緒にレコーディングすると信じていた―そして今も信じているからだ。二人がそれぞれのソロ・キャリアを追求し続けていくことは間違いない。しかし、時には、二人の生み出す魔法がまた聞けると信じている。1972年、マディソン・スクウェア・ガーデンでのマクガバン【*2】のための資金集めコンサートで、その魔法は起こった。3つの偉大な「グループ」が、強く支持する理由のために、再結成したのだ。エレイン・メイとマイク・ニコルズの最高のコメディ・チーム。フォークとロックの境界を超越したピーター・ポール&マリー。そして、サイモン&ガーファンクル。この夜のトップ・バッターはニコルズとメイだった。掛け合いのタイミングが少しさびついてはいたものの、マディソン・スクウェア・ガーデンを埋めつくした1万8千人(その大部分は、二人を見たことがない若い世代だった)に、いかに二人のコメディがユーモアの新しい次元を生み出したかを、見せつけた。ものすごくおもしろかった。次にピーター・ポール&マリーが出てきた。私は心動かされた。彼らはディランの「Blowin' In The Wind/風に吹かれて」に独自の意味を吹き込み、「Puff (The Magic Dragon)/パフ」で観客を魅了し、「This Land Is Your Land/わが祖国」でノックアウトした。そして、バカラックとデイヴィッドのヒット曲を独自の解釈で見事に歌い上げたディオンヌ・ワーイックの後に、サイモン&ガーファンクルがステージに現れた。

私は、彼らがゆっくりと出てくるのを見るとうれしくなった。ガーファンクルは例のぎこちない、少年のような感じでマイクの側に立ち、サイモンは前後に、そして左右に体を揺らし、観客に笑いかけ、手を振っていた。観客は、立ち上がって、多くの素晴らしい音楽を生み出してきた二人の吟遊詩人に歓声をあげていた。そして、二人は歌い始めた―「Mrs. Robinson/ミセス・ロビンソン」、「Emily Whenever I May Find Her 【原文ママ】/エミリー・エミリー」、「The Boxer/ボクサー」、「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)/59番街橋の歌(フィーリン・グルーヴィー)」、「America/アメリカ」、「The Sound of Silece/サウンド・オブ・サイレンス」、「Cecilia/セシリア」、「Mother and Child Reunion」、「Me and Julio」、「Homeward Bound/早く家に帰りたい」、そしてもちろん、「Bridge Over Troubled Water/明日に架ける橋」【*3】。くらくらするほどよかった。観客は怒涛の拍手で答えた。本当に素晴らしい夜だった。締めは私が手配したニューヨーク・ヒルトン・ホテルのガラス張りのペントハウスでのパーティで終わった。

しかし、何も変わらなかった。ポールはまだ次のアルバムを一人でレコーディングするつもりでいた。ある日会って次のアルバムについて話し合った。彼のソロ・デビュー・アルバムは100万枚売れた。他のミュージシャンにとってはすごい数字だ・・・が、ポールを満足させることは出来なかった。彼らしい自信をもって、どこで間違えたのかを聞いてきた。私は、アルバムはスマッシュ・ヒットだったと保証した。売り上げをもっと伸ばせたとしたら、アルバムのリリースに合わせて大都市をまわる開くツアーをするか、シングルが「Bridge Over Troubled Water」や「The Sound of Silence」のように著作権料をかせぐヒットになった場合だけだ。「Me and Julio」と「Mother and Child Reunion」は大ヒットになったが、多くの「他の」アーティストがレコーディングするようなバラード・タイプのヒットではなかった。シングルがカバーされれば、アルバムのセールスに勢いがつく。

ポールはアルバム『Rhymin' Simon/ひとりごと』に合わせてツアーをすることに同意した。彼はずっと、もうコンサートはしない、ツアーをすると消耗するから、と言っていた。最初のソロ・アルバムを出す時にもツアーの話をしたが、彼は断固として反対した。しかし、プレス・インタビューのためにイギリスに滞在していた時に、彼は考えを変え始めた。キャット・スティーヴンスのコンサートに、実務処理担当としてイギリスに来ていたマイケル・タネンと一緒に、行った時のことだ。キャット・スティーヴンスのマネージャー、バリー・クロストがロイヤル・ボックスを私たちのために押さえてくれていた。ロイヤル・ボックスには、ローリング・ストーンズのビジネス・アドバイザー、プリンス・ルパート、有名モデルのペネロープ・ツリーと恋人の写真家、デビッド・ベイリーがいた。ポールと私は最前列に座った。階下の観客がまじまじと見つめてくる視線に、彼は気がついて、反応していた。ライブはパワフルで、コンサートの間にポールのアドレナリンが上昇しているのがわかった。気分が盛り上がっているようだった。バリーに頼んで、キャット・スティーヴンスに観客席からポールを紹介してもらおうかと、思いついた。ポールは、1曲か2曲、歌いさえするかもしれない。私は自問自答した。本当に長い間ライブから遠ざかっていたのだから、ここでポールがステージに上がっておくのはいいことだ、と思った。メディアの宣伝効果も莫大だ。しかし、彼は嫌がるだろうか?自分のコンサートの時代は終わった、と言っていたし。やってみろと、わざわざ私が言うべきだろうか?キャット・スティーヴンスは、スポットライトを分かち合うのを嫌がるだろうか?私は、やめておくことにした。

コンサートの後、私はバリーにどう思うか尋ねてみた。頼まれたら気を悪くしただろうか?「まさか」と彼は言った。「余計に盛り上がっただろうし、特別な夜になっていたと思いますよ」。そこで、ポールに聞いてみた。「キャットが客に君を紹介して、ステージに上がるように頼んだとする。君はどうしただろう?」。彼の答えは、「演奏する3曲を選んであったんだ」だった。ポールがまたツアーをする気なのは明らかだった。

『Rhymin' Simon』からどの曲を最初のシングルとして出すかについては、長い間話し合った。ポールは「American Tune/アメリカの歌」がシングルにぴったりだと思う、と言った。私は反対した。この曲はそんなに簡単にはヒットしないと思ったので、「Kodachrome/僕のコダクローム」を提案した。「おいおい」とポールは言った。「あなただろう、いつもバラード・タイプのヒットが重要だって言ってるのは!この曲は、歌詞もしっかりしているし、質の高い曲だ。第二の『Bridge Over Troubled Water』になるかもしれないのに」。確かに、歌詞はしっかりしていた。しかし、メロディー・ラインの強さが足らないと思った。「もしこれがヒットするなら」私は言った。「アルバムからでも取り上げられるよ。でも、今のところ最適な選択とは言えないな。君は本格的なツアーをしていないから、ソロのイメージがまだ固まっていない。安全策を取って、シングルらしい曲にしておいた方がいい」。

「Kodachrome」の方が、よほど確実だった。私はこの曲を最初のシングルにするよう押した。

彼は、考えておく、と言った。次の日には同意した。結果として、『There Goes Rhymin' Simon』は好スタートを切った。2枚目のシングル「Loves Me Like A Rock/母からの愛のように」がAM局でヘビー・ローテーションになってからリリースされ、アルバムは流れに乗った。このシングルはゴールドになり、100万枚以上売れた。ポールはかなり広い地域をまわるツアーを行い、彼の素晴らしいスタンダード曲の数々を披露するライブ・パフォーマンスを作り上げた。そして、『ローリング・ストーン』誌が「American Tune」を年間最優秀曲に選び、ポールを喜ばせた。質の高さがついに認められたのだ。

これら全てが、ポールをアメリカでトップ・レベルのソングライター/パフォーマーとして確固たる地位につけた。もし、現在の勢いで曲を作り演奏し続けるなら、彼は間違いなく一人でも名声を築き上げるだろう。

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【訳注】
*1 チャールズ・グローディン/Charles Grodin:1935年ペンシルヴァニア州ピッツバーグ生まれ。『キャッチ=22/Catch 22』(1970)にも出演。1977年のテレビ番組『ポール・サイモン・スペシャル/Paul Simon Special』にも脚本・出演で参加。
*2 マクガバン:ジョージ・マクガバン/George McGovernは、1972年に民主党の大統領候補として出馬したが、共和党のリチャード・ニクソンに敗れた。
*3 このセットリストは、現存するライブ音源とはかなり違うことに注意。筆者の記憶違いと思われる。音源によるとこの日のセットリストは「Mrs. Robinson」、「El Condor Pasa (If I Could)」、「The Boxer」、「Cecilia/Mother And Child Reunion/Bye Bye Love(メドレー)」、「Scarborough Fair」、「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」、「America」、「Bridge Over Troubled Water」。