Inside The Record Business クライヴ・デイヴィス ジェームズ・ウィルウェース 著 |
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1964年にプロデューサーのトム・ウィルソンがこのデュオと契約した。アルバム『Wednesday Morning, 3 A.M./水曜の朝、午前三時』をレコーディングしたものの、全くと言っていいほど注目されなかった。しかし、アルバムのリリースから1年後、収録曲の「The Sound of Silence/サウンド・オブ・サイレンス」が突然ラジオでかかった。この曲を気に入ったボストン【*1】のディスク・ジョッキーが一般の反応を見ようと実験したのだった。ハーバード、タフツ、ボストン大学などの学生がすぐにリクエストし始めた。この地域のコロンビアの販売促進担当がこれを知り、ニューヨークに報告してきた。何度か聞いた後で、この曲を本物のヒット曲にするには、いくらかインストでのバックアップが必要だ、とコロンビアは決定した。そこでウィルソンがスタジオに入り、必要な多重録音を行った。アーティもポールもいなかった。ポールはイギリスにおり、アーティはコロンビア大学で修士号を取るために勉強していた。
「サウンド・オブ・サイレンス」はシングルで再リリースされた――そして、鳴り物入りで、サイモン&ガーファンクルの非凡なキャリアが幕を開けたのである。この時には、私はA&R【*2】の報告を手にしていて、この運命的な性質のヒットにかなり興味を持っていた。あのディスク・ジョッキーが、1年も前の無名のアルバムの曲を試していなかったら、サイモン&ガーファンクルはおそらく今日の音楽業界に存在していなかっただろう。二人はこの時すでに別れ別れになっていた。しかし、シングル盤が全国で爆発的に売れていると知ると、イギリスにいたポールは戻ってきた。1967年12月にアーティとスタジオに駆け込み、アルバム『The Sounds Of Silence/サウンズ・オブ・サイレンス』をレコーディングした。ヒットした多重録音バージョンのタイトル曲も収録された。「Homeward Bound/早く家に帰りたい」、「I Am A Rock/アイ・アム・ア・ロック」、「Scarborough Fair/スカボロー・フェア」などのヒットが続き、1967年には2枚のアルバムがそれぞれ数十万枚売れ、確固たるアーティストとなった。
私たちは最初、簡単に親しくなった。彼らは二人ともクイーンズの公立学校出身で、聡明でしっかりしていた。いつも、私たちは仕事抜きでもつきあえる、と感じていた。しかし、ビジネスが常に邪魔をした。一例として、『卒業/The Graduate』のサウンドトラックの件がある。ポールは、この映画の監督マイク・ニコルズに音楽を書くように頼まれていた。この話を耳にした時、このサウンドトラックは大ヒットする可能性がある、と思った。サントラはあまり売れないものだ――音楽自体の質よりも映画が魅力的かどうかで売れ行きが決まることが多い。それでも、エンバシー・モーション・ピクチャーズからサウンドトラックの権利が欲しいかどうか聞かれると、私は即決した。この映画には大ヒットの要素が全て含まれていた。
すると、マイク・ニコルズはポールの新しい曲を、殆ど使わないことに決めた。アン・バンクロフトの役名から名づけられた新曲「Mrs. Robinson/ミセス・ロビンソン」を約1分間使うだけで、後はサイモン&ガーファンクルの以前のアルバムから4曲を選んだ。最もよく知られているのが「Sound Of Silence」と「Scarborough Fair」である。私が、1枚アルバムを作れるほど、映画に音楽があるか聞くと、ポールは、ない、と言った。私はものすごくがっかりした。この映画は大ヒットすると感じていた。
封切られると、当然、批評は絶賛した。私はまたポールに電話した。「本当に、本当に、充分な曲がないのか?」と尋ねた。「これは間違いなく大ヒットになるぞ」。
ない、とポールはまた言った。
しかし、このことを心から拭い去れなかった。サウンドトラックとブロードウェイ・ミュージカルのアルバムA&R担当のエド・クレバンにこの映画を見に行かせた。「充分なだけの音楽がないんです」と彼は帰ってきて言った。「昔のアルバムからの曲が入った15分から18分だけのアルバムなんて出せないですよ」。
「ちくしょう、もったいないな」と私は言い、またしつこく考えてみた。これではコロンビアの利益に響く。ミッチ・ミラーとブロードウェイ・ショーのアルバムに代わる大ヒットアルバムが必要だった。「わかりません」と答えてすむような学問的疑問ではない。一枚の良いアルバムが出せれば、この年の決算目標を達成できるのだ。いや、決算目標を越せるかも。ヒットするテーマ曲が1曲ありさえすればいい。例えば、『栄光への脱出/Exodus』【*3】や『日曜はダメよ/Never On Sunday』【*4】のような。ヒット曲が1つあれば、おなじみのバックグラウンド・ミュージックを集めたアルバムもヒット・チャートのトップに載り、何ヶ月もとどまるのだから。
この問題は、私の心から離れなかった。そして、ある日の午後、仕事を抜け出して、自分で映画を見に行った。映画館の中で突然気がついた。私が聞かされていたのは、ポール・サイモンの音楽が15分間ある、ということだけだった、と。作曲家のデイブ・グルーシンも映画のバックグラウンド・ミュージックを作っていたことを誰も言ってこなかった。アルバムを埋めるのには、充分に音楽があった。グルーシンの曲は、標準的なバックグラウンド音楽だった。どんなサウンドトラックにも入っているような。ならばこのアルバムにも入っていていいじゃないか。そもそも、サウンドトラックを買う人達は、普通のレコードの顧客層とは全く違う。大概、自分がすごく気に入った映画に、もう一度入り込みたいと思っているのだ。既に、私は『卒業』が空前の大ヒットになることを確信していた。サントラを出すのは当然だ。
私は、ポールとアーティのマネージャー、モート・ルイスに電話して、この件について話した。彼によると、ポールは絶対にサントラは出さない、と言っているそうだ。アーティもポールに賛成している。二人はサイモン&ガーファンクルのアルバムは、良質で力強い曲が11曲、必要だと思っている。それ以下のものでは、ファンを侮辱することになる、と。その上、アルバム『Bookends/ブックエンド』を製作中で、サウンドトラック・アルバムなどとセールスを分け合いたくなかった。私は、サウンドトラック・アルバムは、サイモン&ガーファンクルのファンだけでなく、多数の映画ファンを惹きつける、と説得した。映画ファンの多くは、S&Gなんて名前さえ聞いたことがないだろう。新しいファン層が開拓できる。このマーケットは、二人の3枚の前作を買ったのべ50万人ほどのファンよりも、もっともっと大きい。
私は、ポールと話させてくれと頼んだ。ポールに持論を説明し、パッケージも映画のサウンドトラック用のものにすると請合った。ジャケットは映画のワン・シーンから取る。タイトルもサイモン&ガーファンクルのアルバムではなく、オフィシャル・モーション・ピクチャー・「サウンドトラック」とはっきりと示す。「マイク・ニコルズ監督・・・アン・バンクロフトとダスティン・ホフマン主演・・・」でクレジットに「作曲:ポール・サイモン、演奏:サイモン&ガーファンクル」のように。サントラが成功しても、『Bookends』の発売を延期するつもりはない、と付け加えた。スマッシュ・シングルになりそうな「Mrs. Robinson」の完成版が入る予定だった。
ポールは、この件に関してはかなりこだわっていた。「僕たちはずっと長い時間かけて『Bookends』を作ってきたんだ。すごく気に入ってるし、音楽的にも新境地を開くことになると思ってる」と彼は言った。「あなたの商業的な問題で、発売を6ヶ月も待ちたくない」。
私は『Bookends』は『卒業』のサントラのすぐ後に出すともう一度繰り返して言った。S&Gの音楽のキャリアという視点から見て、このアイデアは最高だと思った。「この2枚のアルバムを一緒にすれば、君達はスーパースターになれる。もし、2枚ともチャート1位になれば、夢にも見なかったような商業的成功を手にできるぞ。不動の地位を確立できる、新境地だ」。
この結果は、もちろんよくご存知のことだろう。ポールとアーティはしぶしぶ1968年春のサントラ発売に同意した。サウンドトラック・アルバムの売上は、その3倍売れた『Bookends』と一緒に、S&Gを500万組のミュージシャン達の上に立たせた。サイモン&ガーファンクルの名前は、世界中に知れ渡った。
残念なことに、ポールとアーサーは『卒業』サントラの大ヒットにかなり無関心だった。コロンビアに対して、2年間も不信感を抱きつづけた。口論の種は次々に見つかった。例えば、コロンビアは『Bookends』の値段を1ドル上げた。おまけとして中に大きなポスターがついていたし、私はレコードの値段は一定ではない、ということを一般的にしたかったのだ。二人はこれに反対した。買ってくれる人たちのことを気にしていたのだ。見上げた心遣いであるが、私が気にしていたのは、レコーディングの費用が膨れ上がり、利益率が下がっていることだった。だからあえて悪者役になった。その後すぐ、二人の契約の再交渉があり、私たちはまた敵と味方に分かれてしまった。今やロック界のトップに立つ彼らは、全くの無名としてサインした時よりも、もっといい印税率を要求するのは当然だと感じていた。
二人の冷淡さに気分を害していたことは否定しない。私は『卒業』のサントラを後押しし、見事に成功させた。サントラと『Bookends』がチャートトップになれば、二人はスーパースターになるという私の予測は本当になった。1枚のアルバムがナンバー1になればスターが生まれる。2枚のアルバムが同時にチャートトップになれば、スーパースターが生まれる。お礼を言われて当然と思うのが人情である。しかし何もなかった。
と言うわけで、両方の感情が交渉を遅らせる原因となった。必要以上に時間が掛かった。結局、二人の印税率を上げ、コロンビアとの契約を延長することで決着した。
アルバム『Bridge Over Troubled Water/明日に架ける橋』は、制作に1年以上もかかり、1970年にやっと完成した。ポールとアーティから、スタジオに来てテープを聞くように頼まれた。ポールの両親と弟も同席しており、それはとても特別な瞬間だった。アルバムはまさに傑作だった。聞き終わり、二人に、非常にすばらしいアルバムだと感想を言うと、彼らはシングルをどれにすべきか意見を求めてきた。「『Bridge Over Troubled Water』に決まってるよ」と言うと、二人は驚いた。あまりシングルらしい曲ではない。彼らは私がもっとアップテンポな「Cecilia/セシリア」を提案すると考えていた(この曲も、後にヒット・シングルとなった)。
「僕たちも『Bridge』はすごく気に入っている」とアーティは言った。「アルバムのタイトルにもするつもりだけれど・・・でも、これがヒット・シングルに本当になると思うのかい?」。
「絶対とは言えないが」と私は言った。「でも、今回はホームランを狙う。今はロック全盛時代で、この曲はバラードだ。しかも長い。しかし、もしもヒットになれば、名曲として残るだろう」。私は、この曲をシングルでアルバムと同時発売し、他のアーティストのレコードが1位を取る可能性をゼロにしたかった。市場調査では「Cecilia」や「El Condor Pasa/コンドルは飛んでいく」の方が反応がよかったかもしれないが、単なるヒットに終わり、時代を超えて残るスタンダード曲にはならないだろう。この結果も、よくご存知のことだろう。アルバム『Bridge』は、世界中で900万枚売れ、史上最高の売上を記録した。その記録に近づいたのは、近年ではキャロル・キングの『Tapestry/つづれおり』だけだった。史上最多のグラミー賞を受賞したアルバムとなり、サイモン&ガーファンクルは、成功の一途をたどっていた。
私たちの関係は、このころには落ち着き、友人となっていた。アーティは当時旅行にばかり出かけていたが、ニューヨークにいる時は、よく話をし、音楽業界の最新ニュースを教えてあげた。ポールとはよく昼食を共にし、彼は一度、感動的にも、こう言ってくれたことがあった。「僕たちの人生は、いつか重なり合うと思う。僕はいつまでもレコーディング・アーティストではないかもしれない。でも、僕たちは何らかの形でもっと親しく関わりあうように、きっとなるよ」。
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