レコード業界の内側
Inside The Record Business

   クライヴ・デイヴィス ジェームズ・ウィルウェース 著
翻訳:Chie http://www.ne.jp/asahi/art/garfunkel/

目次>> 訳者前文 / 【1】 / 【2】 / 【3】

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すると、ポールとアーティの関係が悪化してきた。前述したように、それは、アーティの『キャッチ=22/Catch 22』の撮影が、『Bridge Over Troubled Water/明日に架ける橋』のレコーディングを遅らせてしまった時に始まった。ポールは、アルバムのための曲作りを全て終わらせてしまうと、せっかちになるタイプである。すぐにスタジオ入りしたいのだ。アーティが『キャッチ=22』の役を承諾したのは、もっぱら時間をつぶすためだった。ただ、彼はマイク・ニコルズが映画を撮影し終わるまでに1年間もかけるとは予想していなかった。ニコルズの当初の見積もりでは2・3ヶ月だった。しかし、一度映画に入ると、抜けれないものだ。金の問題ではなかった。アーティの『キャッチ=22』のギャラは7万5千ドルほどだった。『Bridge』で彼は約100万ドル稼ぎだした。しかし、アーティはメキシコの撮影現場を離れられず、ポールはかなり重荷に感じていた。しかも、アルバム制作のペースは酷く遅く、多大なチームワークを要求するものだった。1曲レコーディングするたびに、それでいいかどうか「一緒に」決めるのだ。この作業が上手く行くためには、二人の音楽の好みがぴったり合っていなければならない。このことが、二人の間で大きな問題となっていた。アーティの映画撮影への苛立ちと、自分が作った曲をもっと独占的にコントロールしたいという気持ちの間のはざまで、ポールは、解散すべきだと心を決めた。

ある日、ポールが電話をかけてきて、会いたいと言ってきた。「他の人が見つけ出す前に」と彼は言った。「あなたに言っておきたくてね。アーティとは分かれることにしたよ。もう一緒にレコーディングすることはないと思う」。私は、呆然とした。問題があるのは分かっていたが、まさかこれが解決策とは思わなかった。サイモン&ガーファンクルは、世界でもトップ2か3に入る大物グループだったのだ。それが今、またしても、成功の絶頂にあるグループが解散したいと言うのだ。しかし、いつものことだが、私にはどうしようもなかった。結婚した夫婦の間の愛を法律で取り締まることは出来ないし、二人のアーティストを無理やり一緒にしておくことは出来ないのだ。

繰り返しになるが、言わせてもらいたい。構成メンバーよりも、グループとしての名声の方が、商業的にはるかに重要なのだ。ママス&パパスがキャリアの絶頂期で解散した時、なんてバカなんだと思ったものだ。各メンバーが、自分はグループよりもビッグになれると思ったのだが、間違った考えだった。どんな場合でも自明である。ポールがなぜリスクをわざわざ背負うのか、理解できなかった。彼とアーティは違う、解散などしないと願っていた。幼なじみなのだし、私には二人が兄弟のように見えた。

私はポールに、ソロではサイモン&ガーファンクルの成功の足元に及ぶまでにも、長い時間がかかると警告した。ビートルズのメンバーは、ソロでも例外的に大きな成功を収めているが、誰も一人ではグループとして成し遂げた成功に届いていない。ポールのソロ・キャリアも同じ問題にぶつかると思った。ポールは気を悪くした。この時には気づかなかったが、1年後に『ローリング・ストーン』誌のインタビューで、彼が私から全面的な協力が欲しかったのに、と言っているのを読んだ。私のソロとグループに関する理論にがっかりしたそうだ。彼の気持ちも理解できる。しかし、私としては、喜ぶ振りなどできなかった。サイモン&ガーファンクルに解散して欲しくはなかったのだ。

ソロでも二人とも成功しつづけているのは、彼ら自身の功績である。ポールの2枚のアルバムは、絶賛されている。彼の『There Goes Rhymin' Simon/ひとりごと』は1973年のグラミー賞年間最優秀アルバムにノミネートされ、ミリオンセラーになった。アーティは、最初、レコーディングをためらった。何かしなければと焦っていたが、しばらく方向性を見出せないでいた。私たちは連絡を取り合っており、他の作曲家の曲を使ってアルバムを作るべきだと励ました。彼は抵抗した。ジョニー・マティスやアンディ・ウィリアムスのように、ヒット曲の「カバー」をさせたいのだと誤解したようだ。私が考えていたのは全く違う。最新曲の中から、そして彼のために作られた曲からも、最上のものをじっくり選び、非常に個人的なアルバムを作ってほしかった。君の名声を持ってすれば、作曲家や出版社が駆けつけてくるよ、と私は言って聞かせた。望めば、ジェームズ・テイラー、キャロル・キング、ポール・ウィリアムス、ジミー・ウェッブのような作曲家から君の好きな曲を選べるのだ、と。

アーティはそれでも惑いつづけた。しばらくはクラシックと現代音楽を組み合わせたものを作りたがった。お次は教会音楽、その次はギリシャ音楽の話をしていた。彼が目移りするたびに、出来るだけ現在の作曲家の方へ押すようにした。他のアイデアも素晴らしいが、折衷主義的なもので、ファン層が限られている。彼はようやく正気に返り、サンフランシスコに行ってロイ・ハリーとアルバムをレコーディングした。ロイ・ハリーは凄腕のエンジニア兼プロデューサーで、サイモン&ガーファンクルのアルバム全てに参加し、計り知れない貢献をした男だ。作成途中で数曲聞かせてもらったが、いい出来に仕上がっていると思った。しかし、予想通り、アーティの完璧主義的な傾向が強く出てきていた。レコーディングには1年以上も費やした。途中、彼は私の手をつなぎ止めるために、電話までしてきた。

「方向を見失ったわけじゃないんだ」と彼は言った。「アルバムには時間がかかってるけれど、自分のやりたいことはわかっているから」。かさむスタジオ使用料を遠まわしに聞いてきた。「何枚売れればコロンビアの投資を清算できるのかな」。20万から25万枚だと計算すると、「心配することはないよ、それは確実だ」と言った。全くアーティらしい。私が、彼の過去の実績や私たちの関係を考慮して、膨大にかさんでいるスタジオ使用料のことを非常に気にかけているのに言い出さないのだ、と彼は気づいていた。そのことに感謝して、彼は自分なりの方法で対処したのだ。

彼の予想は正しかった。20万ドル以上かかった『Angel Clare/天使の歌声』の制作費は、清算された。実際には、1974年春までには、アルバムの売り上げは100万枚近くまで伸びた。彼の勝利である。

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