|
|
|
” The Boxer ”...名演は数あれど...名演中の名演の話...
NBC-TV Saturday Night Live / 2001年9月29日放映
番組冒頭、ルディ・ジュリアーニ市長が、勤務を終えたばかりの約30人の消防・警察関係者とともに立っているところから始まる、惨劇の現場の埃がまだユニフォームに残っているのが見えます。番組進行では、最初に市長がニューヨーク市の栄光と復旧についていくつかの言葉を述べ、その後、ポール・サイモンに歌ってもらうというものでした。これは街の元気を取り戻すというローン・マイケルズの考えを反映する重要なステップでした。
マイケルズとポールには重要なつながりがありました。ポールは ” 9.11 ” のときに街にいたことであり、それを襲った恐怖を知っていたのです。その朝、彼は2人の子供たち( 8歳のエイドリアンと6歳のルル )を連れて、セントラル・パーク・ウェスト沿いを約15分かけて学校まで歩いていました。この日は秋の気配と寒さが少し残っていましたが、とても良い天気でした。彼がアパートに戻った時に、妻のイーディーが玄関先にいて、アメリカン航空の旅客機が世界貿易センタービルの北タワーに墜落したという知らせを聞きました。
テレビに映る映像を見てパニックに陥った彼は、エイドリアン、ルル、そして友人の子供たちを家に連れて帰るために、急いで学校に戻りました。子どもたちを落ち着かせるため、ポールとイーディはテレビを消し、地下鉄で数駅離れたダウンタウンで何が起こっているのか、恐ろしい詳細を知らせませんでした。
マイケルズは『 サタデー・ナイト・ライブ 』のタイミングを懸念してはいましたが、ポールは親友の一人であり、その判断を暗黙のうちに信頼していたマイケルズの出演依頼を断るはずがありませんでした。更に、ポールはこの番組に頻繁に出演していたので、キャストの名誉メンバーのようなものでした。それでも、大変でした。廊下に出るとすぐに、彼は平静を保つことができるか? 心配し始めました。ポールは友人やミュージシャンの葬儀・追悼式で歌ったことがありましたが、悲しみに暮れる顔を見るのがどれほど辛く難しいかを知っていました。
ジュリアーニは、傍らにいる消防関係者、警察関係者、法執行官と同じように厳粛な態度で、市長としての決意について次のように述べてショーの冒頭を飾りました。「 ニューヨーカーは団結しています。私たちはテロには屈しません。私たちは恐怖から決断を下すことはしません。私たちは自由に人生を生きることを選択します。」
彼が話し終えると、テレビの視聴者には優しいギターの音が聞こえ、カメラはゆっくりと市長からポールへとパンしました。黒い服を着てFDNY( ニュ−ヨ−ク市消防局 )の帽子をかぶったポールは、巨大な星条旗の前に立ち、マイケルズが選んだ曲を歌い始めました。それは「 明日に架ける橋 」ではなく、ポール自身の闘争と戦いの物語である「ザ・ボクサー」でした。
1969年春、ポールがまだ27歳だったときに録音、シングル・レコ−ドで世に出た「ザ・ボクサー」は、驚くべき技巧と奥深さを備えた曲で、最初のヴァースは一人称で書かれていますが、最後のヴァースは劇的に三人称に移り、新たな感情を加えています。
最初の 2 つのコーラスの間、聴衆は沈黙を保っており、その瞬間にさらなる感動を与えました。しかし、ポールが最後のヴァースを終えると、散り散りになった聴衆が彼と一緒に「ライ・ラ・ライ」のコーラスをささやき合い、スタジオの感情をさらに高めました。
この日の「ザ・ボクサ−」は亡くなられた方々の行き場のない霊をなぐさめる意味での鎮魂歌となりました...
ポ−ルが歌い終わった後、マイケルズはジュリア−ニに歩みより 二言三言交わした後...番組の決め台詞をジュリア−ニが発します ” Live From New York in Saturday Night !!”...
15年後、ローン・マイケルズは、この日のポール・サイモンのパフォーマンスをサタデー・ナイト・ライブ史上最も感動的な音楽の瞬間と呼びました...
【2402.jpg : 242.1KB】
|
|
<Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Geck...@tcn055017.tcn-catv.ne.jp>
|