■日本におけるS&Gファン30年史〜前編
 


S&Gが日本で広く認知されたのは、筆者のこれまでの研究(?)によると、1969(昭和44)年もしくは1970(昭和45)年頃である。その後も、数年おきに「S&Gブーム」がおこり、ラジオやテレビで彼らの音楽がとりあげられたり、シングルレコードが再発されたり、あるいはオムニバスアルバムが発売されるなどして、彼らの音楽に新たに触れる機会がもたらされた。

日本ではこれまで30年余りの間に概略以下のような「S&Gブーム」があり、それぞれのブームにおいて新たなS&Gファンが生み出されてきたのである。

【1】 第1次ブーム、1965(昭和40)年末〜1968(昭和45)年


Live From NYC 1967



この時期に「The Sound Of Silence」を聴いて虜になった人々が、日本におけるS&Gファンの「第一世代」といえる。

1965〜1968年の日本におけるS&Gの流行がどういうものであったかは、筆者にはまだ解明できていないが、おそらく洋楽ファンで、当時から米国のヒット・チャートをチェックし、またボブ・ディランやピーター・ポール&マリーのような「アメリカン・フォーク」を聴いている、そういう人々がS&Gの発見者であったと思われる。

この第一世代、すなわちこの時期に15〜25歳であった方々は、2002年の現在では47〜57歳となっており、年代的にインターネットにアクセスする方はごく少数で、ネット上でお見かけすることもごく稀である。 以降に述べる、「卒業」世代、「明日に架ける橋」世代などもふくめて、S&Gがビルボードチャートのトップ10の常連であった時期にすでにファンであった、いわゆる「リアルタイム世代」であるが、いくつかの段階に細分化して説明を加えてゆく。

【2】 映画 「卒業」ブーム、1968(昭和43)年〜1969(昭和44)年


映画「卒業」の日本初公開時のチラシ
 


     


映画「卒業」は日本でも1968年から公開されて大ヒットし、その後71年、75年、86年の3度リバイバル公開され、未だに年イチでテレビ放映されている。

これにともない、S&Gもあらゆるメディアで紹介され、映画のイメージとともに「青春の苦悩を歌うサイモンとガーファンクル」、「The Sound Of Silence」イコール「卒業のテーマ」、という一般的理解が確立したのがこの時期であり、全世界的にも「卒業」をきっかけにファンとなった人々は多い。この「卒業」ブーム以降のファンは、第1次ブームが「洋楽ファン」を母体としたのに対して、「映画ファン」を母体として加えた点で、より広がりが大きかったと思われる。

日本ではこの1968年からオリコンのシングルチャートの集計がはじまっているが、「The Sound Of Silence」が68年度の洋楽シングル年間最高売上(52.9万枚)を記録している。(MS-DATABASEより)

米国においても、ポール自身が、S&Gは「1968年に本当のスターになった」と述懐しているように、映画「卒業」のサントラと、それに連続してリリースされたアルバム「Bookends」、およびその前後にリリースされたシングル数枚の大ヒットがなければ、あるいはS&Gは「Sound Of Silence の一発屋」で終わっていたかもしれない。

ここまでの2世代、すなわち1965年末から69年にかけての日本のS&Gファンは、ビートルズやローリング・ストーンズといった他の洋楽ファンと対決の火花を散らし、1968(昭和43)年のグラミー賞で「Mrs. Robinson」が「Hey Jude」を抑えて年間最優秀レコードを獲得するのをまのあたりにし、「The Boxer/Baby Driver」[1969(昭和44)年]を新譜で購入した、幸福な世代である。

さらにこの世代には、「卒業」もしくはS&Gにからめて愛を語り合い、結婚に至ったカップルも多かった。彼らはのち1990年代になって、10代半ばまで成長した我が子にレコード棚から古びたS&Gのアルバムを引っ張り出して聴かせ、あるいは映画「卒業」を見るたびに青春の思い出を語って、「二世ファン」を生み出してゆくのである。


【3】 「明日に架ける橋」ブーム、1970(昭和45)年〜1972(昭和47)年



「明日に架ける橋」1970(昭和45)年

1970(昭和45)年2月にリリースされた「明日に架ける橋/Bridge Over Troubled Water」は、現代では想像できないような、とてつもない全世界的流行を巻き起こしたアルバムだった。発表後1972年までの3年間アルバムセールスの首位をキープするほど売れつづけ(「All About Paul Simon」 ワーナーミュージックジャパン編)、全世界で1700万枚ものセールスを記録した。日本でもラジオやテレビではもちろん、喫茶店やデパートのようなBGMのかかる場所では、どこでも必ず聴くことができた。

第1次ブームにおけるS&Gファンは、ロックファンすなわちビートルズファン、ストーンズファンなどと分離、並立するかたちでのS&Gファンであり、たとえばおそらく60年代後半のストーンズファンのレコードコレクションにはS&Gの「Parsley, Sage,Rosemary And Thyme」は含まれていなかった。

これに対して、アルバム「明日に架ける橋」は、ストーンズファンにも、ビートルマニアにも、さらにはひと世代上のプレスリーファンや、フランク・シナトラのようなポップスのファンにも広く聴かれたアルバムであった。1970年代当時、ロック/ポップスのレコードコレクションをもつ人々は全員このアルバムを持っていたのではないか、と思われるほど、どこの家のレコード棚でもこのアルバムを見かけることができた。

1970年には、オリコンがアルバムチャートの集計をはじめているが、この70年の洋楽アルバム年間売上No.1となったのが「明日に架ける橋」であった。また同アルバムは翌1971年2月から7週連続で邦楽を抑えてアルバムチャートNo.1となっている。2年越しのヒットであったわけである。(前掲MS-DATABASE

ところで、1970〜72年の日本のS&Gブームにおいて、「明日に架ける橋」以上に重要な役割を果たした国内企画によるベスト盤アルバムにもふれておかねばならない。というのは、この3年間の国内アルバムチャートにおいて1位となったS&Gのアルバム5枚のうち、「明日に架ける橋」をのぞく4枚が国内企画のベスト盤であるためである。

ひとつは「S&Gギフトパック」と呼ばれる、「70年暮れから毎年1枚づつ、5年間にわたって毎年発売された2枚組ベスト盤シリーズ」(ひろしさん、談)である。「S&Gギフトパック」の70年版は、実はオリコンのアルバムチャートで1位となった、初の洋楽アルバムである(71年1月)。その後71年版、72年版まで、「ギフトパックシリーズ」から3枚が1位を獲得している。

そして「S&Gグレーテスト・ヒットII」(71年7月発売)という、本家の「S&G Greatest Hits」と曲目・曲順が同じベスト盤がある。これは本家の「Greatest Hits」の曲順が判明した時点で日本独自に先行企画・発売されたもので、「このせいで本家のGreatest Hitsが全然売れなかった」(ひろしさん、談)という。

★オリコン1位となったS&Gのアルバム★
 日 付
期 間 
 タイトル
期間売上 
 71/01/18
1週 
 S&G ギフトパック (70年版)
 7.3万枚 
 71/02/01
7週 
 明日に架ける橋
44.0万枚 
 71/07/12
18週 
 S&G グレーテストヒットII
35.6万枚 
 71/11/22
10週 
 S&G ギフトパック (71年版)
19.0万枚 
(72/04/04)
(5週)
 (ポール・サイモン)
(12.0万枚)
 72/12/11
3週 
 S&G ギフトパック (72年版)
17.9万枚 
MS-DATABASE「日本で1位に輝いた洋楽アルバム」より抜粋)

1970〜72年の3年間で、日本のアルバムチャートの1位をS&Gのアルバムが占めた期間を合計すると、なんと39週にもなる。この時期の日本におけるS&Gの人気のすさまじさには、想像を絶するものがある。ビートルズ以後、カーペンターズ以前のこの時期、S&Gは日本において最も支持された海外アーティストであった。

アルバム「明日に架ける橋」とそのタイトル曲によって、S&Gは全世界であらゆる層のファンを獲得し、不動のスタンダードとなる。しかしシングル「明日に架ける橋」が実質的にアート・ガーファンクルのソロ曲であったことに象徴されるように、このアルバムの制作過程と同時進行で、S&Gの緊密なパートナーシップは変容をはじめていた。

【4】 「Paul Simon」ブーム、1972(昭和47)年〜1974(昭和49)年

「Paul Simon」1972(昭和47)年


「Greatest Hits」 1972年


「Angel Clare」 1973年

S&Gは1970(昭和45)年7月のライブを最後に、事実上の活動休止にはいるのだが、それが世間に「解散」とはっきり受けとめられたのは、二人がそれぞれのソロアルバムを発表し、S&Gとしての活動を締めくくるベストアルバム「Simon & Garfunkel's Greatest Hits」も発表された1972〜73年頃であろうか。

その前年、1971年はS&Gのグラミー賞独占が音楽界の話題の中心であったから、活動休止についてまだ深刻に受けとめる向きは少なかったようにも思われる。その後日本のファンが活動休止、あるいは「解散」という事実を認識した時期は、今のところはっきりしない、とせざるを得ない。いずれしかるべき人物に、稿を改めてまとめていただこうと考えている。

1972〜73年を境に、日本のS&Gファンもポール・サイモンとアート・ガーファンクルという二人のソロアーティストのファンへと分化してゆくが、サウンドやボーカル・アレンジ面でS&Gらしさを継承したのは、芸術的で繊細なアレンジを好むアートの方であった。S&Gの美しいボーカルアレンジを愛したファンが、アート・ガーファンクルのソロをより好んだことは想像に難くない。

やや余談めくが、「Angel Clare」や以降のソロアルバム数枚において、ボーカルの録音技術がまさしくS&Gのものであった事実によって、S&Gにおけるアート・ガーファンクルの役割の重要性がはっきりする。それは「音楽的な好みを反映した」というような単純なものではなく、もっと実務的、技術的な意味で「ボーカル・プロデューサー」であり、いってみればS&Gのあのボーカルスタイルは、彼が創造し、コントロールし、判断を下して最終テイクに仕上げたものであっただろう。

ポール・サイモンもソロアルバム中の何曲かで、ダブルボイスやハーモニーに関してS&G風のテイストに挑戦していると思われるが、アートのそれのような見事な仕上がりには、到底なりえなかった。これはポールが意図的にそうしなかった、と思われがちだが、そうではない。仕上げの最後のカギは、傑出したボーカル・アレンジャーであり、稀有の実力を持ったボーカリストであるアート・ガーファンクルだけが理解していたものであり、2回の録音で、両方のテイクを子音の端まできっちりあわせて歌う、というような、途方もない労力と正確性を必要とするレコーディング作業は、アート・ガーファンクルがスタジオにいなければ実現不可能だった、ということである。

 
「Live Rhymin'」1974(昭和49)年

これに対して、主にポールのギターテクニックに魅了され、彼を教師としてギターを学んだアコースティックギター・ファン達は、プレイヤーとしてのポール・サイモンに、嫌でもついてゆかざるを得なかった。音楽面で彼がどのように変貌しようとも、彼がアコースティックギターを弾きつづける限り、ついてゆかざるを得なかったのである。

そうしたギター・フリークのファン達に、1974年のポールの初来日は熱狂的に迎えられた。

大阪フェスティバルホール、愛知県体育館、日本武道館での来日コンサート、そして来日とほぼ同時に発売された、1973年の米国ソロツアーの模様を収録したライブアルバム「Live Rhymin」、さらにこの時期のステージで最も使われ、アルバムジャケットでもポールが抱えているギター「Martin D-35S」。これらに日本のファンは、はじめて現実感をもってふれることができた。それ以前の「S&G」が、海の向こうの抽象的存在だったのに対して、ポール・サイモンの来日は、日本で発生した「現実の事件」だったのである。

(2002/08/30 改訂 こうもり)

 
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