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第2弾といってもPart2までは、まだまだ。
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マイケル:
編集の技術をはじめは誰に教わったんですか?
ロイ:
テレビから移ったあと、コロンビアの人間さ。彼ら、特にクラシックの編集エンジニアが編集をしているのを見て・・・彼らは弦楽器のレガートを、「イー」という音を切り取って、引き伸ばしては聴いていて、私は「何だろう・・・、何を聞いているんだろう?」とつぶやきながらそれを聴いていた。25分間、まったく聴き返さずに進めて、最後に3度繰り返して、ほらできた、とね。
マイケル:
録音を修正していたんですね?
ロイ:
もちろんそうさ。A&R部門の人間も常に同席していたからね。それがルールだったから。
年功序列があったので、新人の自分が録音スタジオに入ることになるとは思わなかった。でも驚いたことに、レコーディングをやらせてもらうことになった。大好きなクラシックのレコーディングのために、出張に出かけた。ルイジビル・オーケストラを録りにね。バーバラ・ストライザンドが、CBSでのたしか最初のレコーディングをしたときは、ヴィレッジ・ゲート(ブリーカー通りとトンプソン通りの交差点にある有名なジャズ・クラブ:訳注)まで行った。
そしてNYスタジオでいきなり、最初のセッションをやらされた。ボブ・ディランの『Highway 61 Revisited 』さ。(『追憶のハイウェイ61』1965年6月15日〜8月2日録音、同年8月30日発売)まったく何をやっているんだか、わからなかった。あの男と薄氷の上をスケートしている気分だった。歌い手がドラムの隣で転がっているんだ。彼がそうしたいというんだから。
ご存知の通りひどい録音になったが、彼がそう望むんだから。何せ彼のしたいようにするしかなかったんだ。スタジオに入りたての、右も左もわからない新人だから、とにかくなんとかして言われたとおりにやるしかないだろう!
マイケル:
そのレコードの初期プレスは、非常にいい音質でしたね。
ロイ:
全部一発録りさ。あの時はアル・クーパー(ライク・ア・ローリング・ストーンのイントロの、あのキーボード・プレイヤー:訳注)も、マイク・ブルームフィールドもいた。トム・ウィルソンがプロデューサでね。楽しかったよ。
(訳注:1965年7月25日のニューポート・フォーク・フェスティバルにおいて、ボブ・ディランがポール・バターフィールド・ブルース・バンドをバックに大音量で『ライク・ア・ローリング・ストーン』など数曲を演奏し、観客に大ブーイングを浴びた事件は、このレコーディングの真っ只中の時期。ディランは涙を浮かべながらステージを降り、フォークギター一本で再登場したといいます。ディランが泥酔していたのは、その日のショックでやけになっていたためでしょうか。)
マイケル:
『CDレビュー』のあるライターが、どの曲もチューニングがあっていないという、そのことだけでこのレコードのクォリティや意義を却下していますが。
ロイ:
実際ひどく外れていたからね。でも今はエキサイティングなレコードだと思っている。
マイケル:
まったく、おっしゃるとおりです!当時歴史的偉業に携わっている、という実感はありましたか?
ロイ:
いやぁ、全然なかった。単なるセッションと見ていた。誰もがその有様を見て、「こりゃひどいな」といっていたし。レコード会社、それもポップスのレコード会社の人間達だから無理もないが。そして『Highway 61 Revisited 』のあと、素敵な幸運(『サウンド・オブ・サイレンス』のリミックスとヒットの事実:訳注)が巡ってきた。
トム・ウィルソンが「あのふたり」をオーディションに連れてきた。(1964年はじめ:訳注)オーディションを受けに入ってきたのはあのふたり、サイモン&ガーファンクルだった。ふたりと、ギター一本で。それがあんなにすごいことになって。忘れられないよ。それは7thアベニュー799番地のスタジオだった。のちにA&Rスタジオになったが、すばらしいスタジオだったのに、コロンビアは売り払ってしまったんだ!のちに東52丁目通り49番地に移った。これがひどいスタジオでね・・・。
まあそういうわけで、サイモン&ガーファンクルのオーディションをやった。
マイケル:
その時の歌を覚えていますか?
ロイ:
歌だって?アルバムまるごとだよ。オーディションの中身は、『水曜の朝』のアルバムまるごとだった。
マイケル:
彼らはそれがアルバムになるということを分かっていたんですか?それがオーディションだということも?
ロイ:
いや、わかっていなかった。彼らは膝ががくがく震えるほど緊張していたから。
オーディションをすごく気に入ったのを覚えている。私はそのふたりを気に入ったんだ。彼らの声の響きも気に入った。声のブレンドが絶妙だったね。自分がクラシック畑の出身だからか、クラシックの影響が聞き取れた。彼らは非凡で、是非一緒に仕事をしたいと思った。
そういうわけで、2週間ほどしてからトム・ウィルソンがやってきて、売り出しのために、その辺にいたミュージシャンと一緒にエレクトリック・トラックを付け足した。(こちらは1965年8月の『サウンド・オブ・サイレンス』のシングル製作の話?:訳注)
マイケル:
サイモン&ガーファンクルはそのことを知らなかったんですよね?
ロイ:
その通り。ポールはイングランドにいたし、アーティーはどこかで教師をしていたから。トム・ウィルソンと私でこのオーバーダビングをやってリリースすると、『サウンド・オブ・サイレンス』は大ヒットになり、突如として「奴らを呼び戻せ!」となった。
マイケル:
アレンジは誰がやったんですか?
ロイ:
あの頃は、まったく慌ただしかった。曲を提示して、ミュージシャン達はそれを感じたままに演奏するだけ。ギターのミュージシャンはチューニングが狂っていた。まったくひどかった!12弦エレキギターだったが、チューニングが合わせにくいからね。
ともかく私はヒット曲を生み出し、ポップスのスタジオだったあそこは、いきなりいろんなロック&ロールのスタジオとして大人気になった。私には社外のクライアントから依頼がくるようになっていた。コロンビアは嫌がっていたが、Kama Sutra(The Lovin' Spoonfulの所属レーベル:訳注)を手伝った。ラヴィン・スプーンフルの『Summer In The City』のアルバムを手がけたんだ。(アルバム『Hums Of the Lovin' Spoonful』の発売は1967年。シングル『Summer In The City』は1966年8月のNo.1ヒット:訳注)それもヒットして、スタジオも私も盛り上がっていった。思いがけない展開だったね。
いきなりみんな、「そのコロンビアの新しいスタジオでやってみよう。そこの若いヤツを捕まえて。」となった。アーティストからも依頼が来るようになったよ。私はスタジオの成功を好ましく思っていたし、当時コロンビアが契約していたなかには、いいアーティストがそろっていたからね。
でも、自分の手がけたレコードをかけることには耐えられないんだ。そういうレコードはマスターテープのようないい音はでないから。
マイケル:
もちろん、不具合や失敗した部分も聴こえるわけですね。
ロイ:
それを思うと気が狂いそうになるよ!
IRSのスピーカーでは、ポップスのレコードの大半は聞くに堪えない。(ハリーが当時持っていた、Infinity IRS スピーカー)ポップスはWATT(Wilson Audio WATT/Puppys)で聴きたいね。シェーカーのような音はとくに。シェーカーの音がとってもよく聴こえると思う。それをきちんと聞こえるように直して、思い切り左に寄せたんだ。IRSに持っていくと、ぼやけてしまう。Wilsonから出せば、ほらね。IRSより印象がはっきりするだろう。
(このくだり、何の話かわかりにくいです・・・。『Summer In The City』のサビでもシェーカーが聴こえる・・・。その話かも?しかしこれなかなかいいレコードですね。:訳者白)
マイケル:
『Highway 61 Revisited 』のあと、ディランのアルバムを手がけたんですか?
ロイ:
いや、私にとっては、こっちのふたりの方が好ましかった。彼らと一緒に仕事をするのが楽しかったんだ。
マイケル:
ディランは仕事をしづらいことで悪名が高いですからね。
ロイ:
もう一方の手に、サイモン&ガーファンクルという持ちダマがあったしね。クラシックの、決まりきったルーチンから抜け出して、録音スタジオで仕事がでるようになり、やりたいことをできるようになったんだ。やろうと思えば、表通りにマイクを立てることだってできるんだ。実際やってみたら楽しいだろうね。
マイケル:
彼らは実験好きだったんですね?
ロイ:
その通りさ!たとえば、コロンビアには大きな反響室(エコーをかける部屋。スピーカーから再生した音を反響させて録音し、エコーの効果を得る:訳注)があったが、私はそこにある再生スピーカーの音質が気に食わなかった。
そこで「反響室の中に入ってボーカルを録音しよう」と。それで、LP『明日に架ける橋』に入っている『ニューヨークの少年』のバックコーラスを知っているだろう?あの「アー、アーアアー」というやつだ。あれは反響室の中で録ったものなんだが、面白いサウンドになったと思うよ。
ドルビーの話もある。私はドルビー(ノイズリダクション)は好きじゃないが、ドルビーを使うと音響的に不思議な効果が得られる。ドルビーを目一杯かけても、ノイズをすっかり消すことはできないが、ボーカルに使うとイコライザーでは得られないくっきりした音になるんだ。
(ドルビーシステムは、ヒスノイズが入りやすい高い音を強調して録音し、再生時に小さい音で再生することでヒスのイズを低減する仕組み。この結果、高い音の輪郭が強調された音質になる。これをボーカルの録音に使っていたということか:訳注)
『バイ・バイ・ラブ』をやったときは、ある日ポールが「ライブで録音したらどうかな。観客にドラムの代わりをやってもらうんだ。ドラムを使うのはやめよう」と言い出した。そういうことばかりやっていたんだよ。いつも何か変わったこと、面白そうなことを探していた。
それでライブをするため出かけていって、実際にはうまく行かないことがわかった。必ず誰かが間違えてしまうんだ。観客がうまく行くこともあったが、こんどは彼らが間違えた。逆に観客のテンポがずれてしまったりね。それでスタジオに戻って演奏をきちんと直して出直して、ライブで観客の音を重ね録りしよう、といったんだ。
マイケル:
そこで芸術的好みが分かれたんですか?
ロイ:
そうじゃなくて、それはほんとに難しかったということだ。知っての通り芸術的好みの問題はやがて起きたがね。
それで我々が実際やりたいことを観客に説明したんだ。
マイケル:
面白いのは、ミリ・ヴァニリ(有名な口パクデュオ。口パクがばれてグラミー賞を剥奪された:訳注)で論争が起こったとき、ニューヨーク・タイムズの記者が、それはサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』のオーバーダビングと大して違わない、といったとか。
ロイ:
それはばかばかしいね。
で、我々はそれを実行した。2拍目と4拍目に手拍子をオーバーダビングしたトラックを作り、いくつか別の観客の音を録りたかったから、何箇所か別の場所に出かけた。やはり時々リズムを外してしまうので、ワイルド・トラック(別の装置に録音した、オリジナルと調子を合わせていない録音)を使わざるを得なかった。当時はサンプリングなんてなかったからね。それで2トラックのワイルド・トラック用マシンを4台用意して、それぞれを操作したんだ。
今思えば、サウンドがどうこうより、実験をやっていた感じが強いね。
<To Be Continued>
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