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Artie and Graham Nash
 7thAvenue E-MAIL  - 24/2/16(金) 9:26 -

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   Artie and Graham Nash playing chess

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Re:Paul Simon Documentary 'In Restless Dreams'
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/26(金) 17:58 -

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   >MGM+ 試してみました...ログインは簡単にできたのですが、指定されたプロバイダ−選択の画面が表示されて...どうやら指定されたプロバイダ−経由で MGM+ に接続するみたいで30くらいありましたが、選択できるプロバイダ−が無くて...そこから先に行けませんでした...日本から視聴するにはハードルが高そうです...
>
>どなたか観る方法を御存知でしたら教えて下さい、宜しく御願いします。

MGM+

残念ながら日本からではダメみたいです

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Re:The Rhythm Of The Saints...
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/16(火) 21:04 -

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   ▼1619Broadwayさんの投稿:
>▼
>1988年8月31日夕方、私はポール・サイモンに会わせてもらうためにマンハッタンのレコーディングスタジオ「Hit Factory」にいました。
>控え室で彼を待っている間、壁の向こうから凄まじいドラミングの音が聞こえていました。
>まさに、このときレコーディングしたものだったと思います。貴重な体験でした。

以前、ポールに手紙を書かれた方ですよね...
その後 ポールに会ってどんな話をされたのでしょうか?
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Re:The Rhythm Of The Saints...
 1619Broadway E-MAIL  - 24/1/14(日) 16:46 -

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1988年8月31日夕方、私はポール・サイモンに会わせてもらうためにマンハッタンのレコーディングスタジオ「Hit Factory」にいました。
控え室で彼を待っている間、壁の向こうから凄まじいドラミングの音が聞こえていました。
まさに、このときレコーディングしたものだったと思います。貴重な体験でした。
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The Rhythm Of The Saints...
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/12(金) 10:07 -

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   ブラジルでのレコーディングは官僚的な役所仕事の壁が悪夢のように次々と立ちはだかりました。

ミルトン・ナシメントのレコードプロデューサー、マルコ・マッツォーラの多大な協力と仲介役がなければ、その多くを克服するのは不可能だったでしょう。マッツォーラは、ポールとフィル・ラモーン( ロイ・ハリーの代役 )のためにスタジオでの時間を予約しただけでなく、地元のミュージシャンも招集してくれました。

数日後、ポールはもっと話を聞きたいと熱望し、マッツォーラは彼をサルバドール市に連れて行き、そこでこの地域の数々の世界遺産を讃え、人種差別や経済抑圧と戦うことを目的とした文化集団 オロドゥムの話を聞きました。( この地の歴史を振り返れば 300年以上に渡りポルトガルに植民地支配されていたわけで...オロドゥムは単なる観光客を集める為の音楽集団ではないのです、彼らの祖先はおそらく西アフリカから強制的に連れて来られた 黒人奴隷に違いありません )

ラモーンは回想録の中で、オロドゥムがポールとの協力を熱望していたのは、彼らの指導者たちがこのつながりによってグループが世界的に注目が集まることを望んでいたからだと書いています。

セッションはサルバドール旧市街の歴史的なペロウリーニョ広場で開催され、中庭の壁は明るい白に塗られていました。パフォーマンスを録音するために、ラモーンはポータブル機器をレンタルし、電柱にマイクを吊り下げ、テープが回り始めると、グループのメンバーは広場を練り歩きながら、素晴らしいエネルギーと精神をドラム演奏に注ぎ込みました。

帰国する飛行機の中で、ポールは、やがて「The Rhythm Of The Saints」というタイトルになる新作アルバムに持てる時間のすべてを捧げることに決めたのでした...

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出会いの前に...
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/8(月) 12:40 -

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   ポ−ルが英国から帰国して以降、アルバム” Sounds Of Silence ” のレコ-ディングを含めて...

1965年12 月はすべてが順調に進んだわけではありません。 サイモン&ガーファンクルは、所属するプロダクションのウィリアム・モリス・エージェンシ−が彼らを一般的なマルチアクトのポップ・ロック番組に出演させたとき、不満を抱きました。

つまり、フォー・シーズンズ、ヤードバーズ、ルー・クリスティなど、当時の多様なヒットメーカーをフィーチャーする番組では、出演時間が2曲までに制限されることになるからです。

新人アーティストにとってそのような枠は珍しいことではありませんでしたが、特にポールはステージ上でより多くの時間を過ごし、自分たちのスタイルに合わせたセッティングを望んでいました...

それを強く望むあまり、ライブ活動をいっさい取りやめ、レコ−ド制作に専念する事まで議論し話し合っていたのでした...
それぐらい自己主張が強くないと 生き馬の目を抜く 米国のショ−ビズの世界では生き残れない事をポールは自覚していました。

1966年に入り...サイモン&ガーファンクルにとって恩師とも呼べる業界に精通した人物に出会います...

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ロック・スタ−の子供たち...
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/6(土) 20:47 -

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   Rolling Stone " The Children Of Rock "
( ロック・スタ−の子供たち )
2005年4月7日号

https://www.rollingstone.com/music/music-news/the-children-of-rock-99823/

ハーパーとショーン( ジョンとヨーコの息子 )は二人ともロックスターの子供であると特定されることを警戒しており、

" ハーパーはウイスキーを何杯か飲んだ後に初めてポール・サイモンの息子であるという話題に熱中する..."

彼は父親(ワン・トリック・ポニー頃)によく似ているが、顔が痩せていて、ボサボサの髪型をしていることだけが違う。ハーパーは90年代のほとんどをローワー・イースト・サイドで過ごし、演技に対する不安を克服しようと、マーティン・スコセッシ監督の『ブリング・アウト・ザ・デッド』でジャンキーなパンクロック少年を演じるなど、奇妙な仕事に就いた。
「あれは当時の私の人生のパロディのようなものでした」とハーパーは言う。

" 彼は4年前にロンドンに移住したが、それはニューヨークの舞台から逃れるためでもあり、匿名性を求めるためでもあった..."

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トム・ウィルソンがやって来た...
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/5(金) 12:22 -

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   >トム・ウィルソンは法的な詳細を整理するためにニューヨークから飛行機でやって来ました...

私はここに注目しました、
私見になりますが、米コロムビア・レコ−ドからトム・ウィルソンがやってきた、何が話し合われたのでしょうか?ポール・サイモンはあくまで ア−ティと共に サイモン&ガーファンクル としての契約であって ポールがソロでレコ−ドを出すことは少なくとも米国では権利関係の問題から発売できなかったのではないでしょうか?...アーティ側からの訴訟問題にもなりかねませんから...

また、コロムビアとしても 当分の間はサイモン&ガーファンクルで売っていきたいという思惑もあったのだ思います。2人の可能性を信じていたと考えるのも聞こえは良いですが...
最終的に米国以外での発売なら許可しましょう...ということだったのではないか?と推測しています。

ここからは余談です( 以前、どこかで書いたかも知れません )
1970年 ” 明日に架ける橋 ” が発売されて以降、サイモン&ガーファンクルと米コロムビアとの契約はアルバム1枚分残っていました。ポールとアーティはそれを承知した上で次のアルバムを構想しなくてはならなかったわけですが...2人の関係が修復できなくて2〜3曲録音はしたものの、結局ボツになりました。そこで苦肉の策として考えられたのが...1972年に発売された ” Simon & Garfunkel's Greatest Hits ” だったのです。ですから、このアルバムにはポールとアーティも関与しています...というアナウンスがあったわけです。

もちろん、この構想が話合われた上で ポールはポール・サイモンとしての契約をコロムビアと交わしました。1971年のどこかで契約は成立していたと思います。
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長文ですが...
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/4(木) 11:13 -

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   『 1965年3月と5月にBBCが放送した ” 5 to 10 ” でのポールの曲が好評だったのでチャンスを感じたジュディス・ピープは、ロンドンのCBSレコードにポールのソロ・アルバム制作を持ちかけました。 トム・ウィルソンは法的な詳細を整理するためにニューヨークから飛行機でやって来ました。 レジナルド・ウォーバートンとスタンリー・ウェストがプロデューサーとしてクレジットされていますが、何をプロデュースする必要があったのでしょうか?

ポ−ルは6月17日木曜日、アコースティックギターを持ってニューボンドストリートにあるレヴィのレコーディングスタジオに入り、マイク1本に向かって歌いました。 サイモン&ガーファンクルのアルバムとは異なり、これらはすべてポールの曲であり、カバーはなく、もちろんディランもありませんでした。

彼は6月23日と7月5日にスタジオに戻り、レコーディングを終えました。 セッションの合間に、ポールとキャシーは石畳の通りに座り、写真家のデヴィッド・ロウが ディランの『フリーホイーリン』のジャケット写真と同じカバーショットを撮影しました。

ただし、ポールは控えめな態度でディランのような態度を見せませんでした、重要なのは音楽だけでした。 ライナーノーツの中で、ポールは、ディランが最新アルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』のライナーノーツで採用したのと同じ種類の自由形式な表現で、ディランを批判しました。』

1965年7月16日、英CBSレコ−ドは ” I Am A Rock ” と ” Leaves That Are Green ” をシングル・カットし先行発売しました。プロモ用のシングルを制作、各メディアに配布しプロモ−ションにも力を入れました。

そして 8月17日、ポールの始めてのソロ・アルバム ” Paul Simon Songbook ” が発売されたのでした。12月になりポールが米国への帰国直前にオランダでも発売され、その後スペインなどでも順次発売されました。

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Art Garfunkel Live at Royal Albert Hall 1988
 7thAvenue E-MAIL  - 24/1/2(火) 13:17 -

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   Art Garfunkel Live at Royal Albert Hall 1988

下記アドレスをクリックして下さい!
https://vimeo.com/manage/videos/899125953

Art Garfunkel - vocals、Simon Nicol - guitar、 Nicky Hopkins - piano、 Jess Bailey - synthesizers、 Woody Woodmansy - drums

『 アート・ガーファンクルによるこの未発表のライブ音源は、ポール・サイモンとの疎遠が続いていた時期にロンドンの伝説的なロイヤル・アルバート・ホールで録音されました。2人は1970年に解散して以来何度も再会しましたが、その後、ほぼ12年間会話を交わしていません。

たとえお互いに同じ場所にいられなかったとしても、アーティはポールの歌を歌い続けました。ポールがすべての曲を書きましたが、アーティのその独特の透き通った声は、彼らがレコードをヒットさせ成功した要因の半分を占めていました。この録音には 4 曲しか存在しませんが、アーティはソロ ショーの代表的なクローザーである古典的な「Bridge Over Troubled Water」を歌っています。

ア−ティはS&Gの解散前から俳優業に挑戦しましたが、1973年にようやくソロ・アルバムを作る段階になったとき、彼はジミー・ウェッブなどのソングライターに大きく依存しました。ランディ・ニューマンも楽曲を提供してくれました。ここでもこれらの両方のソングライタ−の曲を歌っていますが、巻き髪のテナーが彼の最も有名なサイモン&ガーファンクルのレパートリー以外の曲に挑戦しているのを聞くのは新鮮です。才能豊かで有名なミュージシャンの素晴らしいキャストに支えられたこのセットは、アーティの最高のパフォ−マンスの一部です。』

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