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ちぇしゃさんの偉大な訳業、BBCのラジオ番組「ポール・サイモン・ソングブック」から、Part3のThe Boxer関連部分をお届けします。
実はこれ、ちぇしゃさんに会議室への転載許可を頂いているので、そのうちまとめて掲載します。ロイのインタビューも、完結したらまとめて。
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『ブックエンド』の完成後、サイモン&ガーファンクルは、さらなる野心を、『ボクサー』のレコーディングに燃やすことになります。まさに、「壮大な」という言葉が相応しいこの曲は、何週間もかけて、さまざまな場所で行われたレコーディングを集大成したものでした。
<ポール>
ギターは、フレッド・カーターと一緒に録音した。彼は、ナッシュビルから来たんだ。
<フレッド>
最初は、2本のギターだけでテープを作り始めた。ロイが、「何か、魔法みたいなことが起き始めているぞ・・」と言ったっけ。特に覚えているのは、僕のギターを録音するために、6本のマイクが用意されたこと。前と、後ろと、頭上と。ロイは、僕の呼吸の音まで録っていた。
僕がやったことと言えば、一弦のE を D に落としたチューニングにしたことだけ。これが、この曲のスタンダードな調弦になった。だから、こんな感じで・・・<『ボクサー』のイントロを弾き、歌い始める>・・・ "I am just a poor boy / Though my story's seldom told" ・・・。
<ポール>
そこに僕らは、ドラムをオーバーダビングした。ドラムは、エレベーターシャフト【訳注:エレベーターの通る、垂直方向の空間】の中で演奏された。あの大きなエコーは、そうやって出来たんだよ。コロンビア・レコードのスタジオがある建物の中に、閉じられていないエレベーターシャフトがあったので、そこにドラムを引っぱり出してきた。ロイは、長いケーブルやらマイクやらを、そのエレベーターシャフトの中に設置したんだ。
<ハル ブレイン>
ロイは、エレベーターのドアの前に、ちょうどいい場所を見つけて、そこで僕らは・・・たぶん、CBSビルの5階か6階だったと思うんだけど・・・僕ら以外、建物には誰もいなかった。土曜日か日曜日の午後だった。それで、エレベーターのドアの前に、ばかでかいドラムセットを置いて。もちろん僕はヘッドフォンをつけて、『ボクサー』のトラックを聴いているわけだ。"Lie-la-lie .... "、で、ドラムを叩く。"Lie-la-lie ... "、「バーンッ」。
僕は完全に一人の世界に入っていた。ところが、ある箇所まできたとき、ドラムを叩こうとした瞬間に、エレベーターのドアが開いて、そこに、守衛のおじいさんが立っていたんだ。小さな灰色の制服を着て、信じられないという表情で、まるで、ショットガンで撃たれたみたいな顔をして。僕がドラムを思い切り打つと、おじいさんはそのまま化石みたいに固まってしまった。・・・ドアが閉まって、彼は行ってしまったよ。もう、二度と現れなかった。きっと、もっと早くに引退しておけばよかった、と悔やんでいたことだろうね。
<ポール>
ホーンは、コロンビア大学の小さなチャペルで録音された。とてもいいエコーが得られたから・・・ホーンとストリングスが、ここで録音されたんだ。
<ロイ>
僕の個人的な意見では、これは、今まで作られた最高のレコードだよ。サイモン&ガーファンクルのレコードとしては、エンジニアリングがもっとも上手くいったものだ。僕らの創造性のすべてをつぎ込んだ作品だ。録音は、様々な場所で行われた。ヴォーカルは、スタジオの外で・・・コロンビア大学のチャペルで録音された。コロンビアは、また怒りまくっていたね。「何でそんなところに行かなきゃならないんだ?スタジオではできないのか?」って。とにかく僕らは、チャペルまで行って、ヴォーカルを録ったよ。
それから、ピッコロ・トランペットも使うことにした。ピッコロ・トランペットだよ、分かるかい?『ペニー・レーン』の影響なんかじゃないさ。・・・スチールギターがあのメロディーを弾くのに・・・<『ボクサー』の間奏のメロディーを口ずさむ>・・・ピッコロ・トランペットをかぶせたんだ。スチールギターが弾く低音の上に重ねて、違うサウンドを作り出した。あれは、そうやって出来た音なんだよ。
スチールギターはナッシュビルで録音して、ピッコロ・トランペットはスタジオの外、ヴォーカルを録ったのと同じチャペルで録音した。クラシックのトランペット奏者に吹いてもらった。それから、コーラスのところの "do-do-n" という大きなコントラバス音のために、チューバも使ったんだ。
いつも言っていることなんだけど、この曲をレコーディングするために何が行われたかを語っても、誰も信じてくれないだろうと思う。今日に至るまで・・・誰かが、この曲をもう一度作り出すことは、不可能だろうね。あれだけの量のストリングスを、どうやって収めたのか・・・・きちんと、収まっているだろう?ヴォーカルを、どうやって・・・・いいや。無理だよ・・・"Du-du-du-du-du-n" というオーバーダブだって・・・・盛り込みすぎの曲だって?そう、その通りだ。でも、盛り込みすぎただけではなく、調和がとれて、かつ広がりがある。僕がそうしたんだ。本当に、あのレコードに関して、一冊の本が書けると思う。断言する。あのレコードがどうやって作られたかということだけで、一冊の本が出来るよ。
<『ボクサー』>
<アート>
とてもポールらしい曲だ。自分はたくさんの傷を負ってきた、と言っている。あの頃ポールは、必要以上に自分を世間の目から隠そうとしていた。「多くは語らない、嘘もつかないけれど」という態度で。世界中が僕らのレコードを買ってくれていた・・・でもそれは表面的なことに過ぎなかった。だから彼が言いたかったのは多分、人々が何をしかけてこようと、自分は前進し続ける、ということだったんじゃないかな。
<ポール>
今でも、コンサートでこの曲を歌うと思うんだ、これはあの頃の僕だな、って。陰気な気持ちでいた頃。自分で意識していたかどうかは別として、僕はこれは・・・自分について歌った曲だと思う。そういうつもりで書いたかどうかは覚えていないし、曲を書いた時点では、まるで気がついていなかったのかもしれない。僕は批評されるのは嫌いだったし、人々の賞賛もそれほど信じてはいなかった。とても、傷つきやすかったんだ。
<アート>
"In the clearing stands a boxer" というくだりは、本当にポールを思わせるね。すべてが終わった後も、結局前進し続けるしかない自分がいる。戦い続ける自分が。1991年まで、ずっと。そう、これは、バンドを引き連れてロードに出ていくポールの姿だ。人々が、彼のコンサートの是非を論じる。けれど、彼は、演奏し続ける。それが、ボクサーなんだ。
これは、本当によく出来たレコードだよ。たくさんの要素が盛り込まれているし、ポールの得意とするものがよく出ている。曲を流れる彼のトラヴィス・ピッキング・ギター・・・小川が流れるような、理想的な演奏だ。僕たちが十代の頃に学んだことを、最大限に生かしているんだよ。僕らは声を非常に正確に融合させることを知っていた。だから、ああいう細かい動きを含む曲は・・・ "When I left my home and family / I was no more than a boy" という箇所・・・あの、"more" には、二つの音がのっているだろう?ポールのピッキングは、この単語を正確に二つの音に分解することができた。ギターのリズムに合わせて、二つの音を歌うことができたんだ。『ボクサー』という曲は、歌い手に、そういう技を使わせてくれる曲だった。僕らはギターに合わせて音程を細かく揺らすことができたし、僕らの声はそういう動きに向いていた。何年も前に、僕らはそういうことを学んでいたからね。
『ボクサー』のレコーディングは、どちらかというと、ロイとポールが心をかたむけておこなった仕事だった。僕は『キャッチ22』の撮影のために、メキシコにいたから・・・ポールから、この曲への愛情に満ち満ちた手紙を受け取ったしね。こんな内容だった。「ロイと僕とは、『ボクサー』のレコーディングをしています。出来映えは素晴らしいものです。誰かがスタジオに入ってくる度に、トラックを聴かせてやります。仏さまの顔を見せてやったみたいに、拝んで欲しいからです。もしもこれが、世界最高のレコードだと分からない輩がいた場合には、スタジオから追い出すことにしています。即、追い出します。『悪くないけれど、でも・・・』なんて言い出した場合、終いまで聞かずに、追い出してやります。そんな人間は、・・・<くすくす笑う>・・・信仰心がないに決まっているからです。」
『ボクサー』はトップテンの座を獲得し、次のサイモン&ガーファンクルのアルバム、『明日に架ける橋』の前触れとなりました。『明日に架ける橋』は、それまでのロック音楽の歴史におけるすべてのアルバムの売り上げ記録を、短期間のうちに塗り替えてしまうことになります。
1970年2月に出されたこのアルバムは、10週に渡ってアメリカンチャートのトップを独走し、6つのグラミー賞獲得という前代未聞の記録を打ち立てました。アルバムとタイトル曲はそれぞれ「シングル・オブ・ザ・イヤー」「ソング・オブ・ザ・イヤー」「ベスト・コンテンポラリー・ソング」「アルバム・オブ・ザ・イヤー」「ベスト・アレンジド・レコード」に選ばれ、ロイ・ハリーは「ベスト・エンジニア」を受賞しました。
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