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何ヶ月か後,我々は東52丁目49番へ引っ越した。私の知らないうちにそのスタジオ・エンジニアが割り込んできて,彼がスタジオの可変抵抗を操作して全部成し遂げたかのように功績を持って行ってしまった。とりわけオリジナル・テープのミックスとアルバム用ミックスについては。Tom Wilsonはすでに離任しており,Bob Johnson(訳注:Johnstonが正しいのではないか?)が来ていた。
<写真は,コロンビアの最初の16トラック録音機で小さなスピーカーを聴いているところ。まさに,Bridge Over Troubled Waterの録音に使用されたもの。>
<写真は,今日の私,オーバーダビングに,その小さなスピーカーを使用している。私の後ろのゴールド・レコード(The Looking Grass)に注意。これは,最初にエンジニアがクレジットされたものの一つだ。この隣にS&Gの複数のプラチナ・レコードを飾れたら良いのだが。その後にはDylanのDisireとHardrainもあるはずだが。>
次にBridge Over Troubled Waters (訳注:Waterが正しい)。私は堂々と副業をしていた。SAGやAFTRA,地方の802 ミュージシャン組合と地方の1212電気労働者組合にも会費を払っていた。Clive Davisは,コロンビアの4種の場面で私が歌うようにサインした。それで私はコロンビアのA&R部門を通じてブッキングした。私はせっせと自分自身のコロンビア側の録音を,新しい1インチの16トラック録音機で行った。その後,ある日,私の上司がやって来て,Simon & Garfunkelともう一人のエンジニアに引き渡すよう,またスタジオBにいる彼らに届けるよう命令した。
あらゆる事から言えるのは,スタジオ・エンジニアが彼らのヒットの全部のクレジットを持って行って「黒岩」と呼ばれたビルでSimon & Garfunkelにとってヒーローとなったということだ。新スタジオに引っ越す前後に表に出ない政治があり,そこで我々は新しいミックス室と数人のスタジオ・エンジニアがスタジオでミックスしていた。それで,私はモンスターをスタジオBへ転がし続け,自分自身でCeceliaを聴いてみた。それは捨てられる寸前で,彼らは全く売れないと考えていた。みんなが,それを嫌っていたので,私が,とてもよい作品で好きだと言ったときは,頭に来ていたと思う。
休憩時にPaulを自分のミックス室に招き,コロンビア・レコード・クラブ用に作成しアレンジャー・プロデューサーのEd Shanaphyと私が歌う Sounds of Silenceのレコードを聴いてもらった。Paulはポカンと口を開けて,「わぅ,僕らの録音みたいだ」と言っていた。
そのとおりさ,その他の私のカバー,Almost Persuded, Jackson,そして,Gentle On my Mind, は,少なくともAFTRAスケールでやったのでヒットを生んだオリジナルのようなサウンドになるものだ。
Paulがミックス室を出ようとするとき,再度,私がSounds of Silence のオリジナルをミックスし,スターダムにのし上げたのだと言ったら,「しかし,僕は____がやったと思っていた」と答えた(訳注:原文でも名前は伏せてある)。そうだ。彼が回転式の可変抵抗を操って素敵なミックスをしたのだろう。私は「違うよ。Jaersy Clubで全部話したじゃないか。」 彼から言葉はなく,ぼんやりとした視線のみが返ってきた。「機械を楽しんでくれ」と,出て行く彼に言った。私は,彼らが私のセッションを邪魔し,16トラック録音機を私から取り上げたことに怒っていた。でも私はただの無名人だった。
(続く)
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