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続きです。
<ノートの写真は原文参照>
ここを読んでいるエンジニアは気づかれたかもしれない。ヴォーカル高音部に強いパルテック・イコライゼーションがかけてあり,低音部は60Hzと200Hzでロール・オフにブーストがある。小スピーカー(写真のような)でベースを響かせるためだ。小さな秘密だが私はベース・プレーヤーだ。言うまでもなく4つのチャンネルのそれぞれにリミッターを少しかけた。注意してほしいのは,その夜と翌日,私は,偉大なTeo Maceroの Sax Fifth Avenue アルバムをミックスして,今日でも発売されているが,私のクレジットは無い。その5日前,Judith Raskinのシングルのミックスのノートを見てほしい。
Paul Simonは,その頃ヨーロッパにいて,数週後に戻ってきた。私たちは私の車でジャージーのバル・ミツバーで演奏しに行った。そのイベントについては彼に話してあった。私はバンドで歌うことや演奏することを副業にしていた。バンドリーダーは昔ながらのダンスバンドがロック・ソングを演奏するため良くギタリストを探したものだ。そこで彼がいたということ。彼の父親のLou Simonは,Club dance bandでベース奏者で,私の競争相手だった。
<写真は,モノ・レコードをミックスするときに用いた小さなスピーカーで,今日のイヤホンのように使った>
彼らのレコードはトップを占め,Simon & Garfunkelはスタジオに戻って,更にトム・ウィルソンとオーバーダビングを重ねた。2005年のあるインタビューでは,インタビューされた側がSimon & Garfunkelが知らない間に行われたと曲解しているのだ。その人物がいうには,「Paulはイギリスで,Artieは歌手活動を休止してどこかで教職についていた。そこで,私たちがオーバーダビングをして発売した。その後Sounds of Silenceは巨大なヒットとなり,彼らを呼び戻すことになった。」
彼は彼自身がミックスしたとは言っていない。しかし,明らかに不注意な読者には暗黙的に,そのように了解された。彼はインタビューの少し前に,スタジオはミックス室についてこのように言っていたことを忘れたようだ「その時代には,スタジオはスタジオで,編集室は編集室,マスタリング室はマスタリング室だったわけで,全部別々だった。日々がたつと,テープは編集室に持ち込まれ,そこで編集され 2トラックとモノにミックス・ダウンされる。そこからマスタリング室へ行く」と言ったことを。
彼が言うには「テープは編集室へ持ち込まれ,そこで編集とミックスが行われた」その後にSounds of Silenceがチャートを登るに連れ,トム・ウィルソンが私のところに来てモノのSimon & Garfunkelアルバムを作るように依頼した。その後,彼はBob Johnstonを着任させ,彼(訳注:Bobか?)がMike Figlioと共にステレオ・アルバムをミックスした。Bob Johnstonは彼のインタビューの中で全クレジットを持っていった。当時はモノが主流で,ステレオ(レコード)は使い捨て商品だった。
(訳注:イコライジング関連は誤読があるかもしれません。原文は技術論文でなく,恨み節であり,思いつくままに書いているようでわかりにくいです。 BPさんが添削してくれるかもしれませんので,待っています。笑)
(続く)
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