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4分の1くらいを訳してみます(ラフ・ミックスです。ご容赦を)
>http://www.roughmixdon.com/2014/05/simon-garfunkels-s-s-truth/
Simon & GarfunkelのSounds of Silenceについての真実
Simon & Garfunkelは,この功績問題を何年も前に解決できたはずだが,しなかった。Paulは分かっていたが,何もしないことを選び,”別の誰か”がS&Gとともに名声を手に入れることとなった。
誰かが,人から盗んで隠蔽し,逃走した時,人は懐かしい思い出には出来なくて,数千ドルを損失した可能性が大いに苦しめる。
負け惜しみでは無いのだが,録音の功績は問題だ。ピッタリの決まり文句を幾つか言える。一度は真実を引き出し,音楽録音の歴史のなかの大きな功績詐称問題の一つをS&G物語の中に明記したい。最大の功績詐称問題だというかもしれないものだ。注意してほしいのは,私は記憶と事実に基いて可能性のある,あったことを述べている。宣誓供述書で誓いたいくらいだ。
1963年にコロンビア社で働き始めたころは,自信を持って言うが,ある期間,私は最良のポップ・エディター・ミキサーだった。そしてほとんどのA&Rプロデューサーに気に入られていた。表に出ていないことは,我々が実際には,どんなサウンドに仕上げるかをまかせてくれるほとんどのプロデューサーたちと共同プロデュースをしたということだ。その後数年たってから我々が懇願していたクレジット(訳注:この場合は録音技師を記名すること)が現実化したとき,自分の最初のゴールド・レコードがLooking GlassのBrandyであった。
1960年代のコロンビア・レコードでの規範は,スタジオ・エンジニアはトラックを録音し,我々ミキサーは編集し,最終的な形に仕上げるのだった。スタジオには回転式の可変抵抗器(Rotary Pot)があって,素人にとっては,それぞれのマイクロフォンやトラックのボリュームコントロールであった。どのエンジニアでも適切なミックスなど出来ないと言っていた。私がシングルやアルバムで可変抵抗器を使って成し遂げた事を誰も出来なかった。しかし,これが,52丁目に引っ越すまでのコロンビア・スタジオの現実だった。
我々はエディターと呼ばれたが,我々はミックスし,レコードを最終のサウンドに仕上げた。後にマスタリング・エンジニアと呼ばれるようになり,味のあるリミティングやEQで,雑な仕上げもなく,エコーやstuffもやっている。その後,可能な限り最高レベルのディスクを仕上げる。話はそれるが,街のスタジオで歌ったり演奏もした私は,当時のコロンビアで唯一,ロックをリミッター,コンプレッサー,イコライザーで料理することを理解していた。他のエンジニアは私を嘲笑した。しかし,私はマスタリング・エンジニアとして最高にホットなレベルの仕事をした。クラシックのプロデューサー達は私を嫌い,組合に熱心なあるエンジニアは,私がコンソールで譜面を広げたところを脅かした。これだけでも十分なストーリーがある。
これが,我々がレコードにクレジットされることを懇願して実現した数年前のことだ。しかし,このケースや幾つかのケースでは遅すぎた。1965年7月26日,A&RプロデューサーのTom Wilsonが,新規にオーバーダビングをしたテープをコロンビアの7丁目799のスタジオAから私が居たミックス室607へ持ってきた。それはSimon & GarfunkelのSound of SilenceとSomewhereのオリジナル・テープで,Bobby GreggのドラムスとVinnie BellとBucky Pazzarelliと思うギターが加えてあった。私が全てのstopを引き抜き,モノ・ミックスを作った。ここにあるのが,そのモノ・ミックスのときのノートだ。
(続く)
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