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ロイの行動、そろそろ詳しくわからない時期にはいってきました。
コロンビアを辞めたのは1975年であってるのか、よくわかりません・・・。
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マイケル:
巨大な成功を収めた2枚のレコードについて話す前に、ザ・バーズのことを話しましょうか。
ロイ:
ポール、アーティと一緒に、短期間ロサンゼルスにいた。そこであのリズム・セクションの面々とやったんだ。ハル・ブレイン(ドラムス)、ジョー・オズボーン(ベース)、ラリー・ネクテル(キーボード)、彼らは何でもできる、最高の連中だ。とくにハル・ブレインはポップス・レコード史上最高のドラマーだ。
その時、何かのきっかけでゲイリー・アッシャー(バーズのプロデュース以前にはビーチボーイズの共作者として有名。:訳注)が例の8トラック2台の録音をザ・バーズ</a>のためにやってくれないかといってきた。当時そんなことができるのは私だけだったから。それで『The Notorious Byrd Brothers 』と『Sweetheart Of The Rodeo 』を手がけたんだ。それまでのバーズ作品はレイ・ガーハート(カーペンターズのエンジニアとしても有名:訳注)だね。偉大なエンジニアだ。
マイケル:
他には誰を手がけたんですか?
ロイ:
ローラ・ニーロだ。『New York Tenderberry』を手がけた。またしても実験的な録音に燃えることになったが(えらく大げさな言い方です:訳者白)、それはローラがバンドと一緒ではうまく演奏できなかったためだ。スタジオの精密な雰囲気の中では、いい演奏にならなかった。ライブでは信じられないくらい素晴らしいのにね。ピアノの前に座り、ライトを消して、かわりにキャンドルなんかを灯してやれば、信じられないような演奏をする。それはカーネギー・ホールで証明されたね。向こう一年のチケットが完売して、いつも嵐のような歓声を浴びていた。彼女には誰も抵抗できないくらいの、信仰を超えた磁力のような魅力があった。
ローラのライブから録音するためにバンドを連れて行くと、何回もカットし直さなければならない。そこで彼女とピアノだけでたっぷり演奏させて、あとからバンドをオーバーダビングすることを思いついた。これをクリック音なしでやったんだ。おかげでピアノとボーカルは最高の演奏を収録することができた。
(クリック音は録音のテンポを一定にするための電子音。これを聴きながら演奏することで、あとから楽器やボーカルをオーバーダビングする時にテンポを合わせることができる。:訳注)
マイケル:
それで、他には誰を手がけたんですか?
ロイ:
ブラッド・スウェット&ティアーズ(シカゴなどと並ぶブラス・ロックバンド。初期メンバーにアル・クーパーやランディ・ブレッカーがいる。:訳注)、ピーチズ・アンド・ハーブなんかの、いろんなR&B、それにジャズの作品だね。
デイヴ・クラーク・ファイブや、ザ・ヤードバーズもやった。『I'm A Man』をカットしたよ。(ザ・ヤードバーズ、1965年。歴代メンバーにエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジがいる、ロック史上大変重要なバンド。シングル盤『I'm A Man』はクラプトン脱退後と思われる。:訳注)
マイケル:
のちにコロンビアを辞めたんですね。
ロイ:
コロンビアを辞めて、A&Rスタジオに行った。フィル・ラモーンが誘ってくれたんだ。ミッチ・ライダーとフランキー・ヴァリのセッションを、ボブ・クルーと一緒に手がけた。(1975年頃?:訳注)またコロンビアの古い799スタジオに戻ってね。フィルがそこで素晴らしい作品を作っていた。
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