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>トム・ウィルソンは法的な詳細を整理するためにニューヨークから飛行機でやって来ました...
私はここに注目しました、
私見になりますが、米コロムビア・レコ−ドからトム・ウィルソンがやってきた、何が話し合われたのでしょうか?ポール・サイモンはあくまで ア−ティと共に サイモン&ガーファンクル としての契約であって ポールがソロでレコ−ドを出すことは少なくとも米国では権利関係の問題から発売できなかったのではないでしょうか?...アーティ側からの訴訟問題にもなりかねませんから...
また、コロムビアとしても 当分の間はサイモン&ガーファンクルで売っていきたいという思惑もあったのだ思います。2人の可能性を信じていたと考えるのも聞こえは良いですが...
最終的に米国以外での発売なら許可しましょう...ということだったのではないか?と推測しています。
ここからは余談です( 以前、どこかで書いたかも知れません )
1970年 ” 明日に架ける橋 ” が発売されて以降、サイモン&ガーファンクルと米コロムビアとの契約はアルバム1枚分残っていました。ポールとアーティはそれを承知した上で次のアルバムを構想しなくてはならなかったわけですが...2人の関係が修復できなくて2〜3曲録音はしたものの、結局ボツになりました。そこで苦肉の策として考えられたのが...1972年に発売された ” Simon & Garfunkel's Greatest Hits ” だったのです。ですから、このアルバムにはポールとアーティも関与しています...というアナウンスがあったわけです。
もちろん、この構想が話合われた上で ポールはポール・サイモンとしての契約をコロムビアと交わしました。1971年のどこかで契約は成立していたと思います。
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