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1964年4月... 7thAvenue 23/12/20(水) 23:22 [添付] [未読]
┣ Re:1964年4月... イッシー&バッシー 23/12/22(金) 8:40 [未読]
┃┗ Re:1964年4月... 7thAvenue 23/12/22(金) 13:30 [未読]
┗ Re:1964年4月... 7thAvenue 23/12/22(金) 23:52 [未読]

1964年4月...
 7thAvenue E-MAIL  - 23/12/20(水) 23:22 -

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[添付] 〜添付ファイル〜
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・サイズ : 64.6KB
   1964年4月、ポールが渡英を決心した理由...

『 水曜の朝、午前3時 』には明確な約束があり、コロンビアのプロデューサー、トム・ウィルソンも太鼓判を押していました。そこで1964年3月31日、コロムビア・レコードはサイモン&ガーファンクルのデビュー公演を用意し、会場はグリニッジ・ヴィレッジの有名なクラブ、ガーズ・フォーク・シティでした。

ポールとアーティがガーズのステージに上がったとき、興奮が漂っていましたが、誰が見に来ていたと思いますか?他ならぬボブ・ディランその人でした。そして彼はニューヨーク・タイムズの人気評論家ロバート・シェルトンを連れてきていました。伝説によると、ディランは酒を飲みすぎ、ショーの間ずっと大声で話し、時には笑いさえしていたとの事でした。シェルトンはのちに、アーティはさておき ポールの目にあきらかにダメージが与えられたと主張しました。サイモン&ガーファンクルの大切なデビュー・ステ−ジは観客の笑い声にかき消され、その話はすぐにヴィレッジ中に広まりました。ディランは意図的かどうかは別として、一夜にして彼らを笑い者にすることに成功したのでした。

明らかに悲惨なデビュー公演の後、発売前にもかかわらず 『 水曜の朝、午前3時 』は失敗に終わると確信したポールはヴィレッジを離れ、ロンドン行きの飛行機に搭乗したのでした。

注 )ポールの渡英理由は 『 水曜の朝、午前3時 』が売れなくて失意の中で...と、いう事ではないのです。私は昔から ディランも菅野ヘッケルも大嫌いです。” ポール・サイモン全詞集を読む ” にはぜひ記述して欲しかった事...です。まあ、知らなければ仕方がありませんがwww

添付画像
【4512.jpg : 64.6KB】
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Re:1964年4月...
 イッシー&バッシー E-MAIL  - 23/12/22(金) 8:40 -

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   ▼7thAvenueさんの投稿:
>1964年4月、ポールが渡英を決心した理由...
>
>『 水曜の朝、午前3時 』には明確な約束があり、コロンビアのプロデューサー、トム・ウィルソンも太鼓判を押していました。そこで1964年3月31日、コロムビア・レコードはサイモン&ガーファンクルのデビュー公演を用意し、会場はグリニッジ・ヴィレッジの有名なクラブ、ガーズ・フォーク・シティでした。
>

>明らかに悲惨なデビュー公演の後、発売前にもかかわらず 『 水曜の朝、午前3時 』は失敗に終わると確信したポールはヴィレッジを離れ、ロンドン行きの飛行機に搭乗したのでした。


7thさん、貴重なお話をありがとうございます。
このお話は、The Boxer そのものですね!
I am leaving, I am leaving
But the fighter still remains
を、すぐさま思い浮かべました。
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Re:1964年4月...
 7thAvenue E-MAIL  - 23/12/22(金) 13:30 -

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   ▼イッシー&バッシーさんの投稿:

>このお話は、The Boxer そのものですね!
>I am leaving, I am leaving
>But the fighter still remains
>を、すぐさま思い浮かべました。


イッシ−さん 気が付きましたネ...その通りです、

この事は 以後のポールの曲作りのみならず彼の人生そのものに多大な影響を及ぼしたのは間違いありません。

>I am leaving, I am leaving

この日から約1週間後には既にロンドンに到着した彼は伝手を頼って英国のフォークサーキットにチャレンジしてみることにしました。

>But the fighter still remains

4月19日 エセックス州ブレントウッドのレイルウェイ・フォーククラブでチケット販売をしていた女神に出会います...キャシ−です...戦う戦士には 心の安らぎも必要でした...

以後の話は、また後日...
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Re:1964年4月...
 7thAvenue E-MAIL  - 23/12/22(金) 23:52 -

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   >1964年4月、ポールが渡英を決心した理由...

私の私見を書きます...
この話( 事件 )を知らずして ポール・サイモンを語らないで欲しいと思っています。

ポ−ルは、昔あるインタビュ−記事で ” あなたは何故 英国に来たのですか? ” と聞かれてひと言だけ ” ディランが居るからです ” と答えました...何て 痛々しいんだと思って読みました...

イッシ−さんが書かれている通り...
ポ−ル・サイモンの曲作りには 1964年3月31日のガーズ・フォーク・シティでの事件がいろいろな場面で見え隠れします。
( 例えば ”簡単で散漫な演説 ”、この曲でポールが一番言いたかったのは 名指しでディランを語ってるところです )

では何故 この事件が周知されなかったのか?
サイモン&ガーファンクルとディランは同じレコ−ド会社でしたので どうでもいい音楽評論家達がコロムビアに忖度して書く事をさけていたか?全く知らなかったのか?だと ずっと思っていました。
例え知っていたとしてもフォ−クの神様のネガティブな一面など恐ろしくて書けなかったのでしょうか?どこかの国の音楽事務所といっしょです。

最近話題の ” ポール・サイモン全詞集を読む ”
この本の筆者が、もしこの事件を知っていたら 随分内容が変わっていただろうと容易に想像できます。
この本が届いた時 BPさんに 少し読んですぐに読むのやめましたと伝えたのはその為でした。

1999年のディランとのツア−には 飛び上がる程 ビックリしました...えっ何故? と思いましたネ...これは ポールの方から誘った?可能性もあるのでしょうか?何か 下心があったのかも知れません。

根に持つタイプのポールですからwww

ポ−ルが書いた名曲の数々にはこうした背景があった事を知っておいて戴きたく ぐだぐだ書いてしまいました。
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