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The Boxerセッション話の翻訳必要? 大口洋一 02/3/16(土) 11:16
┗ Re:The Boxerセッション話の翻訳完了 大口洋一 02/3/17(日) 13:34
 ┗ コンサーティーナの音は 大口洋一 02/3/17(日) 13:36

The Boxerセッション話の翻訳必要?
 大口洋一 E-MAIL  - 02/3/16(土) 11:16 -

引用なし
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   会議室での質問がらみで、ハル・ブレインとの話を調べていて、以前話題になっていた、
Acoustic Gutar誌を読み直しています。
全文訳してみましょうか?(締め切り無しね)
誰か読みたい?

一部を載せてみます。

---部分 試訳---
Off the records,
Acoustic Guitar, February 2000

1968年の晩夏、ポール・サイモンはギターを持って座り、「ボクサー」の基礎となるコード展開を弾いていた。その曲はすぐにサイモンとガーファンクル全作品のうちの最も名高い曲目の一つとなるのだった。決して迅速な作家ではないサイモンは典型的には1ヶ月を一曲仕上げるの使う。ragged peopleとかwhoresなど忘れがたいイメージをもった「ボクサー」も例外ではなかった。しかし11月になると、曲は形を見せ始め、この優美な新曲を録音しようという、創造的な過程を開始したいと熱望するようになった。
アメリカのカントリーミュージック市場のために、ナッシュビルという町は若いポップ・スターにはレコードの録音には奇妙なところだった。とりわけ激動の1968年には。
ボブ・ディランは数年前にドラマーのKenny Buttreyとスティール・ギターのPete Drakeといった、この音楽都市のレギュラーを、彼のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」に参加させることですでに流行の一部となっていた。その1年後に「ジョン・ウェズリー・ハーディング」と続く。
南部を訪れる他のヒップ・スターと同様、サイモンと音響担当のロイ・ハリーは11月16日にナッシュビルに着いた。(アート・ガーファンクル不在に注目)
サイモンとガーファンクルの大成功した4枚目のアルバム「ブックエンド」発売の数ヶ月後にボクサー・セッションを開始した。「ブックエンド」という力作は、録音の天才ロイ・ハリーによって、また、優秀なセッション・マンのHal Braine、Larry Knechtel、Joe Osbornの伴奏トラックによって実現したものだ。
サイモンは、「ボクサー」に複数のギター伴奏を目論んでおり、ナッシュビルのポップ・シーンでは有名なセッション・マンのFred Carter,Jr.の参加を迎えて十分に幸運なことだった。Carterは'50年代から活動を始め、Dale Howkins, Robbie Robertsonなどと共同していた。彼はサイモンとガーファンクルを折り紙付きとしたその発明精神、とりわけ、プロデューサーのロイ・ハリーに打たれた。
「ポールと私は基本トラックを録音しようと座ったんですよ。そしたら、突然7〜8本のマイクロフォンに取り囲まれてね。前や後ろや、私の呼吸までも録音されましたよ。その歌は録音中なのに、まだ歌も書いているところでした。実際、全体の歌詞は、ラジオ放送されて初めて聴いたんです。」とカーターは回想する。
その日の終わりまでに、カーターは弦楽器の部分を完成させた。6弦、12弦アコースティック、ドブロ、そしてテレキャスターまでも。そして、ポピュラー音楽の歴史でもっとも有名なギター・イントロとなる部分を録音した。多くの場合そうであるように、演奏者の記載も残さずに。
カーターは無表情に言う「ねえ、料金は頂いてるんですよ。文句ないですよ。」「だから、ポールは私を雇ったんですよ。彼は後にアフリカへ行ったのもそのためだし、Loves Me Like a RockのDixie Hummingbirdsもそうですよ」
カーターの美しい流れるようなイントロと、その後の伴奏は、彼がよく使うチューニングから生まれた。第1弦をDに落とすのである。サイモンとのセッションで、カーターはマーティン 000-18にLa Bellaのナイロン弦を張って使用した。このギターで、彼はチューニングをG#までメイジャー3度上げた( G#、C#、F#、B, D#, F#)。
「あの、ベイビー・ギターはこんなに短いネックなのでね、適当なテンションまで弦を張ることが簡単なんですよ」とカーターは語る「私はポールに提案し、演奏してみました。ポールが言うには、好きだけど、コンサーティーナで弾いたほうがいいなって。そのとき、イタリアから初めてアメリカへ来た連中がいてね、たまたま、イタリアの最高のクラシックのコンサーティーナ奏者だったんですよ。そこで、ポールは通訳を連れて

----以降はまだです--------
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Re:The Boxerセッション話の翻訳完了
 大口洋一 E-MAIL  - 02/3/17(日) 13:34 -

引用なし
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   続きです。結局全部訳しました。
すこしいい加減ですが。

資料室つくりませんか?>管理人さん

で、どこのビルを借りましょうね?エレベータを止めて?>完コピ派の方々

---部分 試訳つづき---
Off the records,
Acoustic Guitar, February 2000

........そこで、ポールは通訳を連れて出かけたんだ。私たちは一日中座って、
リックを検討し、演奏者のために書き上げたんだ。演奏のあとでポールが、
何か違うんだって言い出して、結局彼を使わなかった。彼は当惑して出ていったよ。
その後、元の場所にもどって、私たちは第3テイクに取りかかった」
カーターは、その日、彼の仕事仲間とともに参加した。Charlie McCoyは対位法の
ベース・ハモニカ(曲の第2と最終のバース)、スティール・ギターで有名なCurly
Chalkerは曲のソロブレイクを録音するのに呼ばれた。ソロのメロディは、十分に
奇妙なことにガーファンクル(彼は頭の中で創作した)によるものだった。
「Kenney Buttreyもいたね。」とカーターは、ナッシュビルのパーカッション名人
の名を挙げる「だけど、結局彼は2週間ドラムをたたかないで、映画館にいたよ」
ナッシュビルでの行程に満足してサイモンとハリーは最終仕上げのためにマンハッタン
に戻った。しかし、いったん、町中のコロンビア・レコードの社屋に戻ると、Bookends
に浸透していた実験的な雰囲気が、またも充満してきた。
「一度、ポールとアーティとの関係が出来ると、彼らは私に少しでも上品な方法で物事
を開始するよう求めていたんだ」プロデューサーのハリーが回想する。「とりわけ、
ブックエンドやミセス・ロビンソンがうまくいったあとはね。そのときは、コロンビア
社長のClive Davisが、サンフランシスコに、何でも望んだことが出来るように私専用
のスタジオを与えてくれたんだ。困ったことに、あの連中がいるがために、いつも
ロスアンゼルスに行くことになってしまったよ」
「あの連中」のなかには、ドラムスのHal Blaineがいた。彼は、ある静かな週末に
ニューヨークまでロイ・ハリーにべったりくっついて「ビッグ・ドラム」をもたらした。最終的には、CBSビルディングのエレベータ縦坑の脇に彼はいた。ハリーの愛する
大きな自然な反響を求めて。
「そこは、マイクのケーブルだらけで、私のドラムスとヘッドフォンがあったんです。」
ブレインは言う「あの、ライ・ラ・ライのコーラスが出てくると、出来る限り強く、
スネアを打つんです。エレベータ縦坑が開口した、すぐ横のホールでは、全く大砲を
撃つようなものでした。まさに求めていたサウンドなんです」
数ヶ月後、録音作業が最終段階を迎えるまで、サイモン、ガーファンクルとハリーは
様々な、音を求めての旅を続けた。教会でボーカルを録音し、バッハ風トランペットを
既に録音したスティール・ギターのブレークに加える(この世のものでない音響を、
この過程で作り出す)。そして、歌のフィナーレのため、オーケストラ全体を録音する。
全てのこれらの工夫を懲らすための飛行は、1969年現在のコロンビア社の録音設備の
限界と社長のデイビス(この特例が本当に必要かと疑問も持ったこともある)の忍耐を
試すようなものだった。(複数の録音トラックを扱うため、ハリーは否が応でも複数の
機材を結線する必要があった。)
最終的には、サイモン、ガーファンクルとハリーの構想は賞賛を持って迎えられた。
1969年4月の発売後、「ボクサー」は直ちに大当たりとなった。最終的にシングル・
チャートで7位となった。この成功は、親アルバムとなる「明日に架ける橋」の前兆と
なる。このアルバムは8ヶ月後に発売され、世界中の絶賛を浴びた。発売後すぐに、
サイモンとガーファンクルはグループを解消したが、サイモンの40年の音楽生活の
なかで、「ボクサー」は、名曲として今も位置づけられていて、驚くまでもなく、
彼のライブでの定番である。

「ボクサー」を演奏すること

膨大な録音作業にも関わらず、「ボクサー」は、音楽的にはそんなに複雑なものでは
ない。コードは基本的には半音下げのCで進行するフィンガーピッキング(サイモンが
弾いている)だ。これは2本のギターの歌だ。しかし、録音を本当に魅惑的にしたのは
フレッド・カーターが書き、演奏した第2ギターだ。彼のカントリー風のピッキングと
、時折入るフィルが、「ボクサー」に独特のサウンドを与えている。
カーターが回想するとおり、彼のパートには G#, C#, F#, B, D#, F# に調弦する
必要がある。彼は弦長の短い Martin 000-18 にナイロン弦を張ってこれを実現した
が、こんなに強く弦を張ることは、通常のスティール弦ギターには勧められない。
しかし、同じことを、高音側のE弦をDに緩め、カポを第4フレットにはめることで実現
できる。本誌掲載の採譜譜面はこのように書いてある。
ほとんどのこの曲は基本的なフィンガーピッキングのスキルのみが必要である。しかし、
優美なイントロには、一見簡単なコードのようだが、もっと配慮が必要だ。第1弦から
流れ落ちるように第6弦へ向かうように2小節を弾く。イントロ第2小節は、
3番と4番のバース(最初の2回のライ・ラ・ライの後)のイントロの繰り返しである
ことに注意しよう。さらに、カーターが曲中に散りばめた、いろいろな、スライドや
プル・オフにも注意。
(Dave Simons)

---おわり---
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コンサーティーナの音は
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