それから長い年月が流れ、ハリーは至極困難で、変更の多いセッションをプロデュースすることになった。それは、S&Gが再結成して作られる予定になっていた、「ハーツ・アンド・ボーンズ」”Hearts and bones”である。このアルバムは、一般的には過小評価されているものの、音楽的な質は高い水準に保たれている。
60年代、ハリーはS&G専属のプロデューサーではなかった。ハリーは、一般的にボブ・ディラン
Bob Dylanの最高傑作といわれるアルバム・セッションに参加している。また、ハリーは、ローラ・ニーロ
Laura Nyroの美しいアルバム「ニューヨーク・テンダベリー」”New
York Tendaberry”に関わっていることも、誇りに思っている。「ニーロの音楽を聴くと、ガーシュイン(注:ジョージ・ガーシュウィンGeorge Gershwin 1898-1937。アメリカの代表的作曲家)のを聴いているような思いがするよ」と、ハリーは言う。「歌手として、また、作曲家として、私が関わってきた人間の中でも一番、私はニーロに惚れ抜いていたんだよ」。
ロイ・ハリー:全く、その通りだよ。私はその頃、エンジニアとして、トム・ウィルソン Tom Wilsonと働いていたんだ。だから、私は「追憶のハイウェイ61」“Highway 61”や、「ライク・ア・ローリング・ストーン」”Like a rolling stone”をトムがプロデュースした時も、一緒にやっていたんだよ。
ディランだけではなくて、アル・クーパー Al Kooperや、マイク・ブルームフィールド
Mike Bloomfieldも、「気分次第でやろうや」という感じなんだ。こういった、彼らの姿勢は変わらなかった。彼らは、録音がどんなに悪くても、計画通りにいかなかったとしても、終わりさえすればそれで満足、という感じだった。粗雑で、手で叩きつけたような音、それに、どんなに低い水準で聴いたとしても、面白さなんか微塵もないんだ。レコーディングは、面白さがないと、だめなんだよ。酔っ払っていたから、ディランは乱暴な発言もしていて、私はそれにもうんざりしていたね。
インタビュアー:「クィーン・ジェーン」”Queen
Jane approximately”がギターの音が外れているのは、「計画通りに行かなくても、セッションが終わればそれでいい」という姿勢のいい例ですね?
ともあれ、一般に知られているように、S&G物語は、トム・ウィルソンがエレクトリック・フォーク・ロックのバッキングを、「サウンド・オブ・サイレンス」”The sound of silence”に入れると決めた時点ではじまったんだ。S&Gが両方とも、ヨーロッパに行っている時のことだった。シングルとして、全米ナンバーワンヒットになった。ヨーロッパから帰国して、二人ははじめて、自分達がポップ・スターになっていることに気づいたんだ。
一つの例として、「木の葉は落ちて」”Feuilles-O”(「明日に架ける橋」”Bridge
over troubled water”のリマスター盤に収録)が挙げられる。アーティーは、あの歌や、賛美歌を持ってきた。ポールは、そのアイデアが気に入らなかったし、自分達のその曲のやり方にも不満だったらしい。だけれど、あの曲をやっているうちに、これはだめだ、と思ったようだ。私は、今度リリースされた「木の葉は落ちて」は、ポールは嫌っているに違いないと断言できるね。あの曲がポールの好みに合わない、というだけではなくて、我々3人は、あの曲のレコーディングは上手くいかなかったと思っているんだ。アーティーも、勿論、自分のソロアルバムにはカットし直したものを使ったしね。
ロイ・ハリー:ポールは、私と常に連絡を取っていて、どんな曲を書いているのかをいつも教えてくれたね。そして、時々私のところに来ては、作っている曲を演奏してくれた。だから、私は、「ミセス・ロビンソン」”Mrs. Robinson”などの曲がどういう風に進展していったか、よく分かる。私は、ポールが来て、「明日に架ける橋」をはじめて演奏してくれたことをはっきり覚えているよ。実を言うと、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ Blood sweat and tearsというバンドのヴォーカル、ディヴィッド・クレイトン・トーマス David Clayton Thomasに「明日に架ける橋」を歌うことを提案した時、私はポールと一緒だった。ポールは、S&Gよりも、あの曲はブラッド・スウェット・アンド・ティアーズに向いていると思っていたみたいだね。
ロイ・ハリー:そうだ、その前に、1981年のセントラル・パーク・コンサートで、S&G再結成があったね。あれは、最初から最後まで、本当に大変な仕事だったよ。まず、場所の問題がある。サウンドに関しては、それは、最悪だったよ。PA(注:Public
Address System の略。大勢の観客に向けて大音量を出すための音響装置)の担当をしていたうちの一人は、殆ど耳が聞こえないも同然で、使い物にならなかった。ああいった、囲いや壁が全くない空間で、充分な音量をきちんと出すのは、すごく大変なことだ。
ロイ・ハリー:それは、正確に言うと、違っているよ。アルバムが半分ほど出来たところで、ポールは(S&Gのレコードとして出すことを)止めてしまったんだ。アーティーは、いくつかの曲のバック・ヴォーカルをやっていた。曲数は少なかったけどね(注:アーティーがバック・ヴォーカルを歌っていた曲は、「遥かなる汽笛に」“Train in the distance”と、「月に捧げる思い」”Song about the moon”のみ)。しかし、ポートとアーティーは、いつも別々に録音していた。一緒に歌ったことはあのセッションではなかったよ。ワーナー・ブラザーズは、あのアルバムをS&Gのアルバムで出したいと強く希望していたのだが、ポールは、「これはものにならない」と、早いうちから気づいていたようだ。
ロイ・ハリー:その通りだよ。あれは、ポールのレコードだから、そうすることでしか意味を持たないんだ。でも、S&Gアルバムとして計画していたことが、我々のレコード作りに影響を与えたこともあるんだ。「犬を連れたルネとジョルジェット」”Rene and Georgette Magritte with their dog after the war”を聴いてみると分かるけれど、あの曲はポールが普段使わないような高いキーで書かれているんだ。あれは、アーティーの声に合うように作曲されていたんだ。