【1】 Simon & Garfunkel 解散をめぐる国内報道
   本文: 大口 洋一氏 http://homepage2.nifty.com/y-s-page/

 
 日本のS&Gファンは、明確な宣言を伴なわなかった彼らの解散を如何にして認識したのだろう?手元にある当時の音楽雑誌の記事から、その経緯を追ってみたい。

  (なお、私の手元の資料のみを基礎にしたので、これ以外の資料、とくに、ポールやアート本人の発言が報道されたもので、国内で出版されたものをお持ちの方はご連絡頂きたい。)

 解散に関して、私の手元にある最も古い情報としては、1971年1月の記事が残っている。

 
ミュージックライフ、1971(昭和46)年1月号

  【ミュージックライフ 1971年1月号 P68-69】
ポール:僕たちが解散することは、一度も言っていないよ。君たちは16年間続いた友情を抹殺することは出来ないのさ。ただぼくは、いつか僕たちが一緒に戻る時があるように装っていることは出来る。しかし一体誰がいつ起こるかを知っているっていうんだい?


 これは、上記の雑誌に掲載されたポールのインタビューからの引用である。時期はArtがCarnal Knowledgeの撮影中で、ポールのソロ・アルバム「ポール・サイモン(Paul Simon)」の発売前である。

 

  
CBSソニーの販売促進用ブックレット、1972(昭和47)年


 他方で、1972(昭和47)年に発行されたCBSソニーの販売促進用ブックレットの29ページに、「S&G解散説を打ち消す コンサートに再登場」の見出しがある。これは、1972年6月14日のジョージ・マクガバン大統領候補の支援コンサートにS&Gが出演したことを紹介した記事である。

 現実には、このコンサートは一時的な再結成に過ぎなかったのだが、この時期ではまだ、それが「解散説を打ち消す」ものという解釈が成り立ちえたのである。

  ポール・サイモンは、1972年の5月から7月にかけ、アメリカの雑誌Rolling Stoneのインタビューを受けている。その後Rolling Stone誌の日本語版が発行され、ポール初来日を間近に控えた1974年になって、そのインタビューを掲載した。(なお、Rolling Stone誌日本語版は現在では廃刊である)

  【ローリング・ストーン日本語版 1974年4月号】
ジョン・ランダウとのポールインタビューより(原文は1972年7月20日付けのRolling Stone米国本誌掲載)

ジョン:「2人が別れるキッカケになった事件みたいなものがあったのですか?

ポール:そういうことではなくて、『明日に架ける橋』の時に、どうもうまくいかないという感じがあって、その後、アーティは映画に出たし、ぼくはひとりでアルバムを作る事になって、特別な話し合いがあったわけではないけど、雰囲気としては決定的でしたね。


   この後、解散後について音楽的な自由など肯定的な面をポールは述べているのだが、質問の趣旨が変わると、こうも述べている。

  ジョン:それではどうして、もっと早く別れなかったのですか?

ポール:要はぼくのせいなんです。いつも自分ひとりでやる自信がなかったんで、パートナーを必要としていたんです。こんな状態から脱け出させてくれたのが、ペギーなんです。独力でやって、自分で責任を取るべきだって気にさせてくれたんです。それが良い作品でも悪くても、あなたのものなのだ。出ていって自分のことをおやりなさい。そして、これは俺の作品だ、っていうべきよ....そうペギーは言うんです。


 ポール・サイモンは、1974年3月終わりに初来日し、4月に大阪、名古屋と東京でソロ・コンサートを行った。コンサートに先立ち、記者会見が行われ、FMラジオでも一部放送された。会見内容がミュージックライフ誌に掲載されているので、解散関連の部分を引用してみる。

  【ミュージックライフ 1974年5月号 P86-87】
初来日の記者会見で、代表質問に答えて

質問:ガーファンクルと別れたことについて、1971年の夏頃ということ以外詳しく分かっていませんが、正式にはいつのことだったのでしょう?

ポール:明日に架ける橋のレコーディングが終わった時、1972年のはじめに(注:原文のママ)別れました。正式なアナウンスメントはしませんでした。というのも、又いつか一緒にやることがあるかもしれないと思っていたからです。

質問:解散のいきさつについて、もう少し詳しく話してくれませんか?

ポール:複雑ないきさつもありますが、良きパートナーシップを長い間持続していくのが難しくなったからです。お互いがうまくやっていくために、あらゆる要素が入ってくるわけです。仕事上のプレッシャーもあるし、各々が自分の好きな方向に行きたがるということもありますし。こういうことが介入してきて、やっぱり別れようということになったのです。

質問:解散して、失ったもの得たものは何ですか?

ポール:最も欠如しているという気持ちをもつのは、ガーファンクルと一緒に歌うことが無くなったことです。というのも、ガーファンクルはすばらしいシンガーですから。それ以外のことについては、これ迄もぼくはS&Gのために曲を書き詞を書き続けてきたのですから、それは何ら変わりません。これからは、自分のためにそうして行くということです。もう一つはひとの意見に左右されることがなくなったという自由を味わえますが、一方では、一人の人間の創造力を刺激し合う仲間がいないという不利点もあります。

 これらのインタビューから言えることは、ポールの発言のなかに、S&Gが場合によっては再結成するかもしれないという可能性をみせていたということである。

 

  
CBSソニーの販売促進用ブックレット、1975(昭和50)年


 1975(昭和50)年に発行されたCBSソニーの販売促進用ブックレットのP21では、マイ・リトル・タウン(My Little Town)を2人で録音したことなどを引き合いにして、再結成をにおわせている。また、裏表紙内側に、「再結成のウワサが高まる中、今度は急に全米ネットのTV番組”NBC’s Saturday Night”に2人そろって出演した」「再結成への準備が着々進行中のS&Gが、10月18日の夜、全米ネットのスペシャル・ショー.......」などの記述が見られる。

  この時期は2人ともソロ・アルバムを複数出し、それぞれの音楽性の違いもはっきりしてきたころである。が、もしかしたら、営業戦略の関係でレコード会社は再結成をファンに期待させたがっていたのであろうか?


 1983年になると、S&Gと契約しているアメリカのColumbia Records元社長 クライヴ・デイヴィスの著書 Inside The Record Business の日本語訳 「アメリカ、レコード界の内幕」がスイングジャーナル社から朝妻一郎氏の翻訳で国内出版された。所属レコード会社から見たS&Gの解散の実情を、日本のファンも目にすることができるようになったのである。

(つづく)


 
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