The Sounds of Simon & Garfunkel 

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サイモン&ガーファンクルのサウンド----


  Text by Peter Doggett
 原文:ピーター・ドジェット   翻訳・文責:Woodstock


はじめに

 
活動期間は短いながらも、輝かしい実績を残したサイモン&ガーファンクル Simon & Garfunkel (以下、S&Gと略)のアルバムを作り出したのは、わずか3人の人間だった。ポール・サイモン、アート・ガーファンクル、ロイ・ハリー Roy Haleeである。

 エンジニア兼プロデューサーであったハリーは、1965年から、
S&Gの解散する70年まで、ほぼ全てのS&Gセッションに参加している。 最後のS&Gセッションでは、二人の関係は一触即発の状態であった。だが、サイモンと、ガーファンクルは、二人とも、ソロ活動を開始するにあたって、ロイ・ハリーの力を必要としたのである。

 それから長い年月が流れ、ハリーは至極困難で、変更の多いセッションをプロデュースすることになった。それは、
S&Gが再結成して作られる予定になっていた、「ハーツ・アンド・ボーンズ」”Hearts and bones”である。このアルバムは、一般的には過小評価されているものの、音楽的な質は高い水準に保たれている。

 ハリーは、サイモンのキャリア上、重要なアルバム「グレイスランド」
”Graceland”の長期のセッションにおいても、その力量を発揮している。ハリーは、アルバム「グレイスランド」を、「自分の人生の中で、最も音楽的に目を見張るべきものがある作品だ」と評している。

 60年代、ハリーは
S&G専属のプロデューサーではなかった。ハリーは、一般的にボブ・ディラン Bob Dylanの最高傑作といわれるアルバム・セッションに参加している。また、ハリーは、ローラ・ニーロ Laura Nyroの美しいアルバム「ニューヨーク・テンダベリー」”New York Tendaberry”に関わっていることも、誇りに思っている。「ニーロの音楽を聴くと、ガーシュイン(注:ジョージ・ガーシュウィンGeorge Gershwin 1898-1937。アメリカの代表的作曲家)のを聴いているような思いがするよ」と、ハリーは言う。「歌手として、また、作曲家として、私が関わってきた人間の中でも一番、私はニーロに惚れ抜いていたんだよ」。

 それから、ハリーは、ソニーの新しい
S&Gリマスタード・ボックス・セットについて触れた。それは、S&Gの全アルバムと、それぞれのアルバムのボーナス・トラックを合わせたものである。アルバムは個別に発売されるもので、ハリーはそのプロモーションに携わっている。ハリーは、一つ一つ、適切な言葉を探すようにして話しはじめた。「ポールとの仕事は・・とにかく、・・・」。ハリーの話には、情熱的で、説得力があり、考え深く、そしてその中に洗練された落ち着きがある。もし、自分で、生涯にわたって価値のあるような音楽を作ろうとしているのなら、ハリーは、味方につけるべき最適の人間であろう。


Interview with ROY HALEE ( by Peter Doggett)    
ロイ・ハリー・インタビュー(インタビュアー:ピーター・ドジェット)

インタビュアー:
あなたが、S&Gに最初に会われたのはいつですか?

ロイ・ハリー:
1964年ごろ、S&Gがはじめてコロンビア・レコードのオーディションを行なった時に、私はスタジオにいたんだ。それで、私は彼らが、その後に色々演奏した時も、ずっとスタジオにいたんだよ。

インタビュアー:
その時、あなたはボブ・ディランとも一緒に仕事をされていたのですね?

ロイ・ハリー:
全く、その通りだよ。私はその頃、エンジニアとして、トム・ウィルソン Tom Wilsonと働いていたんだ。だから、私は「追憶のハイウェイ61」“Highway 61”や、「ライク・ア・ローリング・ストーン」”Like a rolling stone”をトムがプロデュースした時も、一緒にやっていたんだよ。

インタビュアー:
ポール・サイモンと比較して、ボブ・ディランと仕事をされるのは、いかがでしたか?

ロイ・ハリー:
それは、全く別の経験だったよ。ディランと働くのは、私はすごく嫌だったね。セッションの最初から最後まで、ディランは酔いつぶれているんだよ。ディランは、「俺はお前がセットしたところで録音するのなんかごめんだぜ。俺はドラムの隣でやる」なんて言うんだ。特に理由なんかないんだ。ただ単に、酔っ払っていたから、そういうことを言ったんだ。 私は、ディランのセッションは、ちっとも創造性なんかありはしない、と思っていた。

 ディランだけではなくて、アル・クーパー
Al Kooperや、マイク・ブルームフィールド Mike Bloomfieldも、「気分次第でやろうや」という感じなんだ。こういった、彼らの姿勢は変わらなかった。彼らは、録音がどんなに悪くても、計画通りにいかなかったとしても、終わりさえすればそれで満足、という感じだった。粗雑で、手で叩きつけたような音、それに、どんなに低い水準で聴いたとしても、面白さなんか微塵もないんだ。レコーディングは、面白さがないと、だめなんだよ。酔っ払っていたから、ディランは乱暴な発言もしていて、私はそれにもうんざりしていたね。

インタビュアー:
「クィーン・ジェーン」”Queen Jane approximately”がギターの音が外れているのは、「計画通りに行かなくても、セッションが終わればそれでいい」という姿勢のいい例ですね?

ロイ・ハリー:
私はその曲をよく思い出せないんだけれど、まぁ、音が外れていたとしたって、ちっとも驚かないだろうね。ディランは、音が合っていようと、外れていようと、気にしなかったから。正直に言って、ディランは音を聴き分けるだけの耳を持っていなかったと思う。私が言っているのはそういうことだよ。

 ともあれ、一般に知られているように、
S&G物語は、トム・ウィルソンがエレクトリック・フォーク・ロックのバッキングを、「サウンド・オブ・サイレンス」”The sound of silence”に入れると決めた時点ではじまったんだ。S&Gが両方とも、ヨーロッパに行っている時のことだった。シングルとして、全米ナンバーワンヒットになった。ヨーロッパから帰国して、二人ははじめて、自分達がポップ・スターになっていることに気づいたんだ。

インタビュアー:
S&Gは、ヨーロッパ滞在中に、自分達の繊細なフォークソングにそんなことをされて、ショックを受けていた様子はありましたか?

ロイ・ハリー:
いや、我々がしたことについて、特に彼らは驚いてはいなかったようだよ。結果として、すごいヒットになったわけだしね!S&Gは、エレキ12弦ギターが入った「サウンド・オブ・サイレンス」も気に入っていて、帰国した時に、エレクトリック・バックをつけてあの曲をヒットさせたエンジニアと仕事がしたい、と言ってきたんだ。そのエンジニアが、私だった。忘れてはいけないんだけど、50年代、S&Gはロック、少なくともポップ・シンガーとしてデビューしたいと願っていた。だけれど、S&Gの声は、荒っぽいロックン・ロールには向かなかった。だから、S&Gは純粋なフォーク・シンガーで、(エレクトリック・バックグラウンドをつけたことで)10代向きのポップ曲になったことに驚いていたのではないか、という意見は、ばかばかしいね。


Perfectionist
    ----「完璧主義者」----

ロイ・ハリー:
スタジオの中にいる時のポールを評する言葉として、「完璧主義者」はいつも出てくるね。だけど、ポール自身はそのことは否定しているけれど。 完璧主義者という言葉は、S&Gのレコーディングに対する姿勢を表すために生まれてきたようなものだよ。特に、ポールがそうだね。はじめは、ポールはすごく扱いにくい相手だよ。アーティーは、それに比べれば、温和だよ。しかし、ポールは、自分の求める音を私が捉えることが出来る、と確信を得ると、自分の壁を取り払うんだ。しかし、だからといって、ポールは完璧主義者であることには変わりがない。いや、むしろ、事態は逆で、ますます完璧主義に傾くけれども、我々は対立関係ではなくて、うまく協力してやっていたんだよ。

インタビュアー:
あなたと、S&Gの関係はところどころで書かれますね。特に印象深いのが、ポール・サイモンの70年代前半のインタビューです。あなたとアート・ガーファンクルがいつも、ポールの提案を退けてしまうような状況だった、ということです。ポールは、あなたとアート・ガーファンクルが聴き心地の良い、たくさんの弦楽器が入ったトラックを好むのだ、という問題を話していました。

ロイ・ハリー:
ポールは時々、曲が彼にとって複雑で豪華になりすぎだ、と言うことはあった。しかし、それがリリースされて大ヒットして、グラミー賞候補になることについては、ポールは喜んでいた。ポールは音を、もっと荒く、シンプルにしたいと言ったかもしないが、全ての曲の、全てのパートを、自分の思い通りに完璧にやろうとする、ということはなかった。レコーディングが思い通りに進まなくて、明らかに音が外れている時は、いつもきちんと直していたがね。

インタビュアー:
アーティーと、あなたがポールの意見を退けてしまうことについて、ポールはどう感じていたようですか?

ロイ・ハリー:
そういう事態は時々起こったけれど、最初の時点で、我々3人はそのこと(注:意見が分かれたら多数決で意見を決めること)を認めていたわけだから、ポールを疎外していた、という問題はなかった。それに、ある時には、別のバランスになったこともあるし(注:ロイ・ハリーとポールの意見が通って、アートの意見が採用されないこと)。私がS&Gをプロデュースする際に、レコードについては我々3人の意見は対等であることを承認したんだ。それは、S&G解散までずっと同じだったよ。

インタビュアー:
あなたは、ポールの、音を荒くしたいという希望よりも、ガーファンクルのソフトな音を優先させたのですか?

ロイ・ハリー:
私は、レコードが良ければ、アートでもポールでも、どちらのやり方にしようと、気にしなかった。確かに、アートは豪華な感じが好きで、それに対して、いつもそうとは限らないけれど、根本的に、ポールはシンプルなサウンドにしたいと思っていた。私は両方の意見を聞いて、その歌にとって私がふさわしいと思う方を選んだ。それは、私だけの考えだけどね。ただ、正直に言えば、私もサウンドがやたら豪華になるのは、あまり好きじゃなかったんだ。

インタビュアー:
ポールが、スタジオでの自分の方法を確立しはじめたのはいつ頃だとお考えですか?

ロイ・ハリー:
「ブックエンド」”Bookends”のセッションからだと思うよ。あのアルバムの、A面の全体像は、本当にゆっくりと、時間をかけて出来上がってきたものだ。その過程は、ポールの頭の中に入っていくことを学ぶようなものだった。我々は、スタジオに入って、アイデアになりそうなものやそうでないものをあれこれ堂堂巡りをしながら、「これは」と思うものが見つかるまで、じっと耐えて待ち続けていた。私はあのレコードについては大変に誇りに思っているよ、特にA面がいい。あれは、どんな賞賛にも値するほどの作品だと思う。

インタビュアー:
アート・ガーファンクルが、自分で書いた曲をスタジオに持って現われる、ということはありましたか?

ロイ・ハリー:
私はそういう記憶はない。だけれど、アートが歌に関するアイデアを持ってきて、ポールに手渡した、ということはあったかもしれない。それか、S&Gで歌えるような曲を提案するとか。

 一つの例として、「木の葉は落ちて」
”Feuilles-O”(「明日に架ける橋」”Bridge over troubled water”のリマスター盤に収録)が挙げられる。アーティーは、あの歌や、賛美歌を持ってきた。ポールは、そのアイデアが気に入らなかったし、自分達のその曲のやり方にも不満だったらしい。だけれど、あの曲をやっているうちに、これはだめだ、と思ったようだ。私は、今度リリースされた「木の葉は落ちて」は、ポールは嫌っているに違いないと断言できるね。あの曲がポールの好みに合わない、というだけではなくて、我々3人は、あの曲のレコーディングは上手くいかなかったと思っているんだ。アーティーも、勿論、自分のソロアルバムにはカットし直したものを使ったしね。

インタビュアー:
ポールはセッションをやっている間も、あなたと連絡を取っていたのですか?もしくは、ポールは突然、レコーディングできそうな新しい曲をいくつも持って、あなたのところに現われるのですか?

ロイ・ハリー:
ポールは、私と常に連絡を取っていて、どんな曲を書いているのかをいつも教えてくれたね。そして、時々私のところに来ては、作っている曲を演奏してくれた。だから、私は、「ミセス・ロビンソン」”Mrs. Robinson”などの曲がどういう風に進展していったか、よく分かる。私は、ポールが来て、「明日に架ける橋」をはじめて演奏してくれたことをはっきり覚えているよ。実を言うと、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ Blood sweat and tearsというバンドのヴォーカル、ディヴィッド・クレイトン・トーマス David Clayton Thomasに「明日に架ける橋」を歌うことを提案した時、私はポールと一緒だった。ポールは、S&Gよりも、あの曲はブラッド・スウェット・アンド・ティアーズに向いていると思っていたみたいだね。

インタビュアー:
アルバム「明日に架ける橋」のセッションは、色々と波乱含みだったようですね。

ロイ・ハリー:
今から思えば、あのセッションが発端で、S&Gが解散したんだからね。アーティーは、それまでやってきたようなやり方をしなくなってしまっていたし。どういうことかと言うと、アーティーは時々現われ、「ボクサー」”The Boxer” や他の曲のヴォーカル録りだけして、あとは殆ど全ての作業を私とポールだけでやっていた。本当のところ、あのアルバムのいくつかのトラックではアーティーは全くと言っていいほど、関与していないんだ。例えば、「ベイビー・ドライバー」”Baby Driver” は、基本的に全てポール任せだったよ。

インタビュアー:
広く知られている話によりますと、あのアルバムに「キューバ・シ、ニクソン・ノー」”Cuba Si, Nixon No”という曲が入る予定でしたが、アーティーがその曲が嫌いだったため、その曲の 代わりにバッハの曲を入れようとした、ということです。しかし、結局は両方の曲とも、あの アルバムには入らなかった。このことは本当ですか?

ロイ・ハリー:
「木の葉は落ちて」は、多分バッハの作品だけれど(注:「木の葉は落ちて」は、民謡 Traditionalである。バッハの作品ではない)、我々はあの曲を完成させていないからね。確かに、「キューバ・シ、ニクソン・ノー」という曲はあったけれど、あのトラックはだめだったね。あの曲は、リズムが悪かった。私は、レコード会社があの曲の存在をかぎつけて、リリースしたがっていたのを知っていた。その一方で、私は、ポールが、あの曲をリリースされるのを明らかに嫌がっていることも分かっていた。しかし、レコード会社の人間は、あれらの過去に録音した曲を「明日に架ける橋」の(リマスター盤)アルバムに入れることについて、実際にレコードを作った我々に相談する気配は全くなかったよ。

インタビュアー:
ポールが自分の初のソロ・アルバムをプロモートした時に、「あなたがアート・ガーファンクルの味方をしている」という色々なコメントをしていたのは、おかしいと思われます。まるで、ポールがそのことについてその時点でも、怒っているかのようでした。しかしながら、ポールはあなたをアルバム「ポール・サイモン」”Paul Simon” で、プロデュース協力者として使っただけでした。

ロイ・ハリー:
アルバム「ポール・サイモン」を作った時、私とポールの間には、特に何も問題はなかったよ。あれは、最後のS&Gアルバムに比べれば、よほど楽だったしね。ポールは、ソロ・アーティストになって、それまでの呪縛から開放されたようだった。自分が望んでいた、荒っぽいサウンドも作れるようになったしね。でも、たとえ荒っぽいサウンドをやる時でも、彼は依然として、完璧主義だったよ。

インタビュアー:
その後、ポールのアルバム「ひとりごと」”There goes rhymin’ Simon”のいくつかのトラックに参加しましたね。あなたは、そのセッションの間に、ポールと対立する、ということはありましたか?

ロイ・ハリー:
いや、そのようなことは問題じゃなかった。皮肉なことに、私は、アーティーの初のソロ・アルバムをプロデュースする約束をしていた。ポールとの仕事をはじめた後で、アーティーから呼び出しがかかったんだ。約束は守らないといけなかったからね。ポールも、そのことは理解していたと思う。

インタビュアー:
アルバム「ハーツ・アンド・ボーンズ」では、ポールから呼び出されることになりましたね。

ロイ・ハリー:
そうだ、その前に、1981年のセントラル・パーク・コンサートで、S&G再結成があったね。あれは、最初から最後まで、本当に大変な仕事だったよ。まず、場所の問題がある。サウンドに関しては、それは、最悪だったよ。PA(注:Public Address System の略。大勢の観客に向けて大音量を出すための音響装置)の担当をしていたうちの一人は、殆ど耳が聞こえないも同然で、使い物にならなかった。ああいった、囲いや壁が全くない空間で、充分な音量をきちんと出すのは、すごく大変なことだ。

 その後、我々はそのコンサートをテープに起こして、アルバムを作った。ポールは、そのレコードは最小限のオーバーダビングしかしなかった。ポールは、いくつかのヴォーカル・ラインを差し替えただけだった。しかし、アーティーの方は、スタジオに入って、コンサートの全てのヴォーカルを録り直したんだ。それは、想像しうる限りのものすごい注意深さ、完璧さを要求される作業だった。ヴォーカルとバンドの音だけではなくて、ヴォーカルとフィルムの映像が全て、一致していなければならなかった。それはもう、死ぬほどきつい作業だった。一語一語全部、全ての音節、一つ一つの息づかいまで、フィルムと合わないといけない。我々は、何時間でもスタジオにいなければならなかった。アーティーは、帰ろうとするが立ち止まって、「いや、今のでも、まだ、フィルムに合っていない。もう一回、録り直しだ」と言うんだ。
もう、我慢の限界にきていたよ。

 そして、それが終わったあとに、ポールとアートは「ハーツ・アンド・ボーンズ」を
S&Gのアルバムとして作ることを決めたんだ。それは本当に・・・(深いため息)困難を極めたね。S&Gは育ちも一緒で、10年以上も共に歌ってきた。二人とも独立して、その後に、二人の間に何事もなかったかのように振舞おうとした・・。私は、二人の関係がとてももろくなっていたと分かっていたから、あの二人がセントラル・パーク・コンサートを行なったことは、本当に驚いていたよ。コンサートビデオを見るとはっきり分かると思うが、アーティーが歌っている時に、ポールとキーボード奏者のリチャード・ティーがアーティーを見ながら笑っているんだ。だから、この二人とアルバムを作るのがきついだろう、というのは、元々分かっていた。

インタビュアー:
「ハーツ・アンド・ボーンズ」の録音が終わってから、ポール・サイモンはその後に、アート・ガーファンクルのヴォーカルを外して、ソロ・レコードとしてリリースしたという話ですが。

ロイ・ハリー:
それは、正確に言うと、違っているよ。アルバムが半分ほど出来たところで、ポールは(S&Gのレコードとして出すことを)止めてしまったんだ。アーティーは、いくつかの曲のバック・ヴォーカルをやっていた。曲数は少なかったけどね(注:アーティーがバック・ヴォーカルを歌っていた曲は、「遥かなる汽笛に」“Train in the distance”と、「月に捧げる思い」”Song about the moon”のみ)。しかし、ポートとアーティーは、いつも別々に録音していた。一緒に歌ったことはあのセッションではなかったよ。ワーナー・ブラザーズは、あのアルバムをS&Gのアルバムで出したいと強く希望していたのだが、ポールは、「これはものにならない」と、早いうちから気づいていたようだ。

インタビュアー:
それに、第一、「ハーツ・アンド・ボーンズ」の歌は、すごく個人的なことを歌った曲が多いですからね。

ロイ・ハリー:
その通りだよ。あれは、ポールのレコードだから、そうすることでしか意味を持たないんだ。でも、S&Gアルバムとして計画していたことが、我々のレコード作りに影響を与えたこともあるんだ。「犬を連れたルネとジョルジェット」”Rene and Georgette Magritte with their dog after the war”を聴いてみると分かるけれど、あの曲はポールが普段使わないような高いキーで書かれているんだ。あれは、アーティーの声に合うように作曲されていたんだ。

インタビュアー:
今日仰られたことを基にして、あなたはこれから、新しいS&Gアルバムがでる可能性はあると考えられますか?

ロイ・ハリー:
いいや、全くないね。ありえないよ。あの二人に、そんなことを持ちかけようとすること自体が間違っているね。S&Gは、60年代に、あれだけ素晴らしいレコードを一緒に作ったんだ。それだけで充分だよ。

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